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【連載】PIT INNその歴史とミュージシャン − 第2回:六本木ピットイン誕生から閉店までの物語

2008年02月12日
好きなことや憧れをライブと結びつけ展開
あまり意図せずにスタートさせて成功へ


「ジャズ・イン・スノー」がスタート!
大好きなスキーとジャズを楽しめるイベントを実現。大好評で継続へ


佐藤良武さんが、学生の時から打ち込んできた趣味のひとつにスキーがある。車好きが集まる喫茶店を目指して作られた『ピットイン』がライブハウスという、思わぬ方向に進んだように(第1回参照)、スキーもやはり導かれるようにしてジャズのライブと結びつくことになった。1974年の冬だった。


(株)ピットインミュージック 代表取締役 佐藤良武さん
− ずっとスキーが大好きで、なんとかジャズと関連した仕事にできないかと考えていました。だったらシンプルに、スキー場でジャズのライブをやったらいいと思いついたんですね。当時よく志賀高原に出かけていまして、そんな企画に賛同してくれたホテルがありました。『ジャズ・イン・スノー』というイベントはここから始まりました。

最初に声をかけたのは渡辺貞夫さんです。「志賀高原までお客さんとバスで行きます。昼間はスキーをやって、夜にコンサートを開きます。普段と気分を変えて、ジャズ・パーティーみたいな雰囲気で演奏するのはどうでしょうか」と。

当時、貞夫さんはブラジルから帰ってきたばかりでした。『ピットイン』のライブでは、イスを後ろにやって、みんなで踊りまくるようなステージでした。そういうタイミングですから、もちろん快諾です。

3泊4日の旅に、バス2台で70人ぐらいのお客さんが集まりました。リゾート地ですから、やはりかしこまったジャズはやらないですよ。ミュージシャンもお客さんもノリノリです。帰りのバスで、貞夫さんが「最高だったよ。来月もう1回やろう」と言ってくれました。こっちは何の準備もしていないので「えっ」という感じでしたが、またやりましたね。このイベントは毎年続くことになって、貞夫さんだけでなく、渡辺香津美さんや向井滋春さんも出演してくれ大盛況が続きました。

ところが、ライブ会場はホテルですので、ほかのお客さんからうるさいとクレームが来ることもあります。また、場所は国立公園の中ですから、音を出すのも午後10時以降はいけないなどの規制があります。いろいろ調整することが多くて、結局、17年間ほどで区切りをつけることにしました。いずれ自分ですべてを仕切ってできればいいなあと、思いましたね。


ついに『岩原ピットイン』オープン
新宿とは一味違った演奏が楽しめる


その後、『ジャズ・イン・スノー』はまったく新しい姿となって生まれ変わることになる。それが『岩原ピットイン』だった。

− やっぱり学生時代から新潟県の岩原にもよく滑りに行っていまして、その縁があって、ある人からロッジを譲り受けることができました。それが91年にオープンした『岩原ピットイン』です。形を変えた『ジャズ・イン・スノー』ですね。そこは自分のロッジですから、音量も気にせずに深夜まで出せます。もちろん宿泊客全員がライブを見に来ているわけですから、うるさいという人もいません。

ミュージシャンも環境が変わるとまるで演奏が違うものです。新宿とはまた一味違った楽しいステージになります。ひと冬に5、6回はライブをやっています。出演メンバーはかなり凄いですよ。2007年は日野皓正さんやケイコ・リーさんに出演してもらいました。



岩原ピットインの現在の写真。ケイコ・リー、日野皓正、国府弘子らが熱いステージを展開。

1995年1月に岩原ピットインで開催された「ジャズ・イン・スノー」の日野皓正バンドのステージ
フュージョンブームがいきなり訪れて「六本木ピットイン」は大盛況へ転換!
これからはミュージシャンに最高のレコーディングシステムを提供したい


「六本木ピットイン」開店のきっかけ
憧れの六本木でお店を開きたい − その強い想いが77年に実現した


さて、ピットインを語るうえで、欠かすことができないのが、『新宿ピットイン』の姉妹店『六本木ピットイン』である。1977年8月、六本木駅から外苑東通りを飯倉方面に歩いた左手にオープンした。フュージョンの殿堂といわれたこの名ライブハウスが誕生し、軌道にのるまでにも、ある物語があった。

− 学生時代、六本木といえば洗練された大人の街というイメージが強く、なんとなく敷居が高かったものです。今のように派手ではなくて、品のいい街でしたね。六本木からちょっとはずれた飯倉の『ガスライト』、それに『ニコラス』や『キャンティ』、知る人ぞ知る店がありました。私はもっぱら新宿でしたから、自分の青春時代、六本木や飯倉への憧れはとても強かったんですね。

77年ですので、30過ぎの時です。六本木で開いている、あるライブハウスの経営者から、後を継いでやってみないかという話をいただきました。何と言っても青春時代に憧れを抱き続けていた街ですからね。始めようと思った理由は、ただそれだけです(笑)。市場調査なんてしませんでした。ダメなら新宿に帰ってくればいいやという調子です。

1977年8月「六本木ピットイン」のオープン時の入口の様子

オープン時の店内の様子


2000年代の入口の写真

1990年代の「六本木ピットイン」の店内の様子

2カ月間は閑古鳥が鳴く始末だったが
いきなりフュージョンが到来し活況へ


すでに新宿で成功を収めていたピットインだったが、当初は六本木のまったく違った風土にうまく順応することができなかった。

− 全然知らなかったのですが、当時、新宿と六本木では栄える時間帯がはっきり違うんですよ。新宿は夜というと6時から11時ぐらい。電車がなくなる手前です。六本木が動きだすのは銀座や赤坂がはねてからなんです。二次会ですね。にぎやかになるのは夜中の11時すぎから夜中の3時ごろまでです。つまり「電車がなくなる」とあわてるようなお客さんはいません。いつもタクシーを使っているような客層なんですね。だから六本木は黒服が席までご案内して、片膝ついてオーダーをとるような店ばかりでした。ところがこちらは新宿と同じように全部セルフです。従業員を呼ぼうとお客さんがライターに火をつけても、何やっているんだろうというような具合ですよ。

また六本木のジャズ・スポットといえば、女性歌手がスタンダードを聴かせ、お酒を飲む場所なんですね。こちらは新宿のミュージシャンしか知りませんから、そのまま六本木に持ち込みました。だからお客さんは来ないですよ。ガラガラです。もちろん土地柄に合わせて対応しようとしましたけれど、やっぱりそういうムードでは、自分の思っているジャズに合いません。もういいやと思って新宿と同じやり方を貫きました。私が六本木で初めてではないでしょうか。前払いでワンドリンク付けておしまい。オーダーするにはカウンターまで来てくださいというスタイルを持ち込んだのは。六本木の流儀に慣れているお客さんにはだいぶ非難されました。

開店して2か月間、『六本木ピットイン』の客足は悪かった。「もう畳んで閉めようと思った」佐藤さんのもとに、一陣の神風が吹いた。


「新宿ピットイン」の店内で佐藤良武さんの興味深い話に耳を傾ける田中伊佐資さん
− その年の10月に貞夫さんがリー・リトナーのジェントル・ソウツをバックにして日本でコンサートを開きました。プロモーターからジェントル・ソウツだけでやらないかという話をもらったんですね。リー・リトナーって誰なんだろうと思いましたけれど、こちらはお客が入らないから、もう何でもいいという感じでした。それに貞夫さんの関係ということですから、やりますと返事をしました。そしたら2日間で1200人もお客さんが来たんですよ。びっくりしましたね。これがフュージョンだったんですね。クロスオーバーという言葉は入ってきていましたけれど、ジャズファンにはまだあまり馴染みがなかったのではないかと思います。

その次の月にラリー・カールトンが来ました。やっぱり名前は知らなかったけれど、フュージョンだっていうから、出てもらいました。またこれも1000人以上の客が入りましたね。びっくりしました。この二人がフュージョン界の二大ギタリストだって後から聞きました。

もうそれから、フュージョンはもちろんのことロックでもブルースでもラテンでも、ジャズ以外は何でもやろうって感じです。ブルースいうと柳ジョージ、あとは山下達郎もいましたし、吉田美奈子もいました。みんな黒っぽかったです。坂本龍一、高中正義や桑名晴子と正博、金子マリ、上田正樹もいました。いまのようにビッグネームではなくてね。スクェア、カシオペアが学生バンドでした。いつしか六本木ピットインはフュージョンの登竜門のようになっていったんです。

そうなると、六本木の接客スタイルなんて吹っ飛んじゃいましたね。若者がどっと来るわけですから。うちだけ六本木では異様な店になっていきました。交番のおまわりさんが見に来たことがありましたよ。若者が「六本木ピットインはどこですか」とよく聞かれる、いったいどんな店なんだろうって。

私はラッキーだったんですよ。車好きが集まる喫茶店として始めた新宿ピットインは低迷。だけどライブをやってうまくいった。さらにエルヴィン・ジョーンズが来て盛り上がった。六本木も自分の憧れだけで始めて、もう畳もうとしたらフュージョンがやってきた。意図しないところで波がやってきたんです。仕掛け人がいるわけでもないのにね。


ビルの解体が決定して2004年に「六本木ピットイン」は閉店した

その『六本木ピットイン』も2004年に27年の長い歴史の幕を閉じることになった。

− 土地の開発のため、ビルを解体してマンションを建てることになりました。六本木でも2、3軒の候補がありましたが、音が出るということでオーナーから難色を示されました。さらに問題は家賃です。「六本木ピットイン」は安い時代に借りることができたから成り立ったわけですが、若い人を相手にするとなるとチケット代1万円はなかなかとれないのです。


「ピットン」の次のチャレンジ
ステージをライブレコーディングし演奏家への最高のサポートをしたい


さて、佐藤さんが抱く次のビジョンは、六本木ピットインに代わるようなライブハウスをどこかに再構築するのではなく、まったく別の事業だった。

− いま『新宿ピットイン』のすぐ脇に新しくスペースを借りまして、スタジオを作っているところです。ステージからラインを引いてライブレコーディングができるようにしています。

今後はピットインがレーベルを作って、独自のシステムで作品を作っていこうと思っています。実力があるのにレコーディングの機会に恵まれないミュージシャンに光を当てることもできますし、誰かの1年間分のステージをすべて録り貯めて、ベストライブを集めたアルバムを作ることもできます。デジタルですからハンドリングは簡単ですし、スタジオに入って一発で録音するやり方のリスクも回避できます。

これからは、ミュージシャンへ最高のサポートをしていこうと思っていますね。まだスタジオは建設中で、1枚も作品は作られていませんが、ミュージシャンは意気に感じる人が多いですから、クオリティの高いものができるのではないかと確信しています。とにかく本物のジャズアルバムを作りたいですね。

また、たとえばかなり将来的なことですが、その日に聴いたライブを、そのまますぐに買えるという時代が来るかも知れません。いまよりもっときれいな映像のネット配信ができるようになった時は、世界に向けてライブ中継ができるかもしれません。

私はデジタル人間でもコンピュータ好きでもないですが、時代に即した考え方をしなければいけないと思っています。といっても基本は、生演奏です。ここはおろそかにできません。生演奏が良くなければ、何をやっても意味がないですよ。そんなアナログ部分がしっかりしてこそ、先進のデジタル技術が生きてくると思っています。

このような前向きな考えが佐藤さんには、いつもあるので、今後の『ピットイン』の展開には今後も大いに期待できそうである。


佐藤良武さんの思い出の「ピットイン・ライブ盤」レコード
第3回につづく)

インタビュー・文 田中伊佐資
写真:田代法生

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