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【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち

第10回:坂田 明さんが語る「ピットイン」のステージの快感<前編>

田中伊佐資

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2010年08月12日
今回は、山下洋輔トリオとして「新宿ピットイン」に数多く出演し、その後も様々な形態でピットインのステージで活躍。ピットインの輝かしい歴史を彩ったミュージシャン、坂田 明さんに登場していただき、佐藤良武さんとの対談形式で、ピットインとの関わりや出演時の思い出を語ってもらう。


高校で楽器を始めたがプロになろうとは思っていなかった
大学卒業後自らで進路を決め、サックス片手に上京をした


中学2年でモダンジャズに魅せられ高校ではクラリネットを吹いていた


坂田 明さん
佐藤:ピットインをどんどん掘り下げていくとね、坂田さんにたどり着くんですよ。

坂田:危ないやつのところに行かざるを得ないか(笑)。

佐藤:なにしろ主ですからね(笑)。ではまず私と知り合う前の、十代の頃から話を始めたいんですけど、そもそもジャズとふれ合うきっかけは何だったんですか。たとえば両親がジャズ好きだったとか。

坂田:それはまったくなかったね。僕が初めて聴いて衝撃を受けたジャズは「墓にツバをかけろ」というフランス映画のテーマ。中学2年生の時。これがモダンジャズだった。「褐色のブルース」という曲でね。

佐藤:映画から入ったわけですか。

坂田:原作・脚色はボリス・ヴィアン。黒人の弟をリンチで殺された兄が、白人に復讐するというストーリーで、かなり内容が危ないんだ。これは大人の世界だ。あやしいと思ったね。それまで大津美子の「ここに幸あり」とかを聴いていたわけだから、そりゃもうショッキングでしたよ。

佐藤:楽器は何かやっていたんですか。

坂田:地方だから、とてもそういう環境ではなくて、高校になったらトランペットをやりたいなあと漠然と思っていましたね。

佐藤:ブラスバンド部に入ったんですよね。

坂田:そう。自分で楽器は持っていないから、学校にあるものを使うんだけど、いいトランペットがなくて、クラリネットを吹くことになった。部員が8、9人ぐらいしかいなくて、まったく格好がつかないクラブだった。みんなが勝手なことをやっていてね。水原弘の「黒い花びら」を弾いていたりとか。ちゃんと教えてくれる先生はいたんだけど、僕は人の言うことを聞くのがきらいで、しんねりむっつり物事を筋道立ててやらない。ぱっと思ったら、ぱっとすぐ進みたいから、みんなとうまくいかなかった。

佐藤:それはジャズ・ミュージシャンに共通しています。

坂田:良武さんは、そういう人間を集めているんだから大変だよね。

佐藤:だから昔から、こうしてくれというようなお願いはしないんですけどね。

坂田:まあ、はいはい聞いているような人はミュージシャンではなくて、ほかの仕事をしたほうがいい(笑)。


大学のジャズ研でサックスをはじめて上京翌年にピットインに出るように・・・

佐藤:話を戻すと、そうするとアルトサックスはいつから始めたんですか?

坂田:広島大学でジャズ研に入ってからだね。親戚中から資金を工面してサックスを買った。そういえばまだお金を返してないな(笑)。65年に渡辺貞夫さんがバークレーから帰ってきて、自宅で教室を開いていると聞いて、いいなあと思ってね。そうしたらヤマハが通信教育をやっているというので、受けたこともあった。3カ月にいっぺんはあって、僕が1番を吹いて、貞夫さんが3番を吹く。そんなこともあったね。


坂田さんに当時の思い出をきく(株)ピットインミュージック 代表取締役 佐藤良武さん(右)
佐藤:その頃からプロになろうと・・・。

坂田:まったく思っていなかった。家業は運送屋だったから、よく手伝っていたよ。人足仕事よりも、車の運転のほうが気持ちいいから、大型免許も取ったし。

佐藤:私は大学で自動車部だったから、坂田さんが大型を持っているというのでびっくりしました。大型はなかなかとらないでしょう。

坂田:でもね、親父はちゃんとした会社に就職させたかったのか、「おまえをトラックの運転手にさせるために国立大学に入れたわけではない」とあまりいい顔をしなかった。だからやむを得ずサックスを吹いていた。まあ、しようがないからジャズ・ミュージシャンになったようなものかな(笑)。

佐藤:私も同じなんですよ。「ピットイン」はカーキチ関係者が集まる喫茶店にしたかった。ところが、友人連中が「これからはジャズだ」というので、仕方なくジャズに方向転換した。坂田さんとは共通点が多いですね。同じ1945年生まれだし。なにか同じ匂いがする。で、卒業してから、どうしたんですか。

坂田:ちゃんと卒論も書いたけど、そのまま教授の推薦する立派な会社に入ったら、もう辞退するわけにはいかない。それで、進路は自分で決めますと言って、サックス片手に東京に出てきちゃった。ジィさんはジィさんで、どうも僕に牡蠣の養殖をやらせたかったらしくて「お前は演歌師になるんだってなあ」なんて、勘違いしながらがっかりしていた(笑)。地元の漁業組合は「学士が漁師になってくれると思ったのに、なんだよ」って怒っていたね。


今回の対談も、新宿ピットンインに併設された「スタジオピットイン」にて行われた
佐藤:それが何年ですか。

坂田:69年。上京してもすぐには食っていけないから、まず川崎の運送会社に入った。
佐藤 坂田さんは、その翌年には「ピットイン」に出るようになっているんだけど、何かきっかけがあったんですか?

坂田:渋谷の「BYG」というライブハウスでね、阿部薫(サックス)と吉沢元治(ベース)さんがデュエットでやっていた。そこに飛び入りして吹いたら、「いいね、ジャズスポットを紹介してあげるよ」と店の人が言ってくれて、「ピットイン」にも顔を出せるようになったんだよね。


「連載:PIT INN その歴史とミュージシャンたち」は、音元出版発行のアナログオーディオ&Newスタイルマガジン「季刊・analog」からの転載記事となります。「季刊・analog」のバックナンバーはこちらから購入いただけます。


東京にはうまい人がたくさんいたので必然的にフリージャズをやろうと決断

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