連載:世界のオーディオブランドを知る(6)スピーカーのイメージを描きかえた「Bowers&Wilkins」の歴史を紐解く
これまでに多くの世界的なオーディオブランドが誕生してきているが、そのブランドがどのような歴史を辿り、今に至るのかをご存知だろうか。オーディオファンを現在に至るまで長く魅了し続けるブランドは多く存在するが、その成り立ちや過去の銘機については意外に知識が曖昧……という方も少なくないのではないだろうか。
そこで本連載では、オーディオ買取専門店「オーディオランド」のご協力のもと、ヴィンテージを含む世界のオーディオブランドを紹介。人気ブランドの成り立ちから歴史、そして歴代の銘機と共に評論家・大橋伸太郎氏が解説する。第6回目となる本稿では「Bowers&Wilkins」ブランドについて紹介しよう。

スピーカーのイメージを描きかえた「Bowers&Wilkins(B&W)」
スピーカーが絵に描かれると、かつては四角い箱に二つか三つ円がくりぬかれていた。今は違う。丸みを帯びた胴体に球形の頭、その上に「ちょんまげ」が乗っていたりする。スピーカーを戯画化すると現代はそうなる。「Bowers&Wilkins(B&W)」はスピーカーのイメージを描きかえてしまったのである。
大小オーディオメーカーや専門メディア、オーディオ評論家の自宅試聴室でのB&W “800系シリーズ” の使用率は尋常でなく高い。事実上の業界標準といっていい。このPHILE WEB配信元の音元出版も現在「802 D4」を常備している。かくいう筆者もフロントL, Rの「802Diamond」はじめ7台のB&Wスピーカーがグラウンドレベルで取り囲むなか、いま本稿を執筆中である。
B&Wは1966年に創業した戦後のスピーカーメーカーである。JBLやアルテック、タンノイのようなカリスマ性と神話に華やかに彩られたメーカーでなく、耳の肥えた一部のオーディオファイルに支持される技術オリエンテッドで地味な存在だった。
B&Wの台頭は、ケブラーコーンを搭載した「801」を1979年に完成し、世界の録音スタジオで相次いで採用された時から始まる。1990年代になると、ノーチラス・チューブ、マトリクス構造、トゥイーターオントップ等々のオーディオの歴史に残るイノベーティブな発明が続き、ハイファイスピーカー界を先導する存在になる。
モニタースピーカーやハイエンドばかりではない。ホームシアターからライフスタイルスピーカー、車載まで含めて、決してロープライスではないのに広く浸透し、スピーカー専業にしてB&Wは現在世界トップクラスのオーディオメーカーである。日本では安価なブランドにまじってスピーカー市場でシェア五傑から外れることがない。
なぜB&Wはかくも強いのか。いつどうやって現在のB&Wが誕生したのか。同社のヒストリーを跡づけてこの謎を解き明かして行こう。
音楽好きな老婦人の遺志がBowers&Wilkinsを誕生させた
B&Wは、1966年、退役軍人のジョン・バウワーズによって設立された。1922年、イングランド・ワーシングに生まれたバウワーズは第二次世界大戦中に王立通信軍団に所属、秘密無線連絡の任務についていたが、国防軍兵士ロイ・ウィルキンスと出会い意気投合する。
除隊後、バウワーズは大学でエレクトロニクスを学び直し学位を取得、故郷のワーシングでウィルキンスを共同経営者にラジオやハイファイの小売店バウワース・アンド・ウィルキンス・ラジオストアを開店する。終戦の年、1945年のことである。
当初はメーカー品の小売りが中心だったが、オリジナルのスピーカーを組み立てて地元の顧客に売るようになる。クラシック音楽のファンだったバウワーズは当時のメーカー品の音質に満足がいかなかったのである。
後にパートナーとなる友人のピーター・ヘイワードとともに作り上げたのが、最初のスピーカーシステム「P(Professional)1」。ユニットまで内製とまでいかず、EMIの楕円形ウーファーにセレッション・トゥイーター「HF-1300」を組み合わせた2ウェイだった。
P1は音質の良さで評判を呼ぶ。1965年のことである。あくる年、ラジオショップは自社製システムの第二作「P2」を発表する。EMIのラミネートグラスファイバーコーン・ウーファーとフェーンのイオントゥイーターによる2ウェイ構成である。
P1の売れ行きがよく、その収益のほとんどを各種測定器の購入にあて、P2の一台一台に測定データをつけた。バウワーズは述懐する。「経営が軌道に乗りお金を手にしても私は質素な生活を心がけ、利益はすべて研究開発の費用にふりむけた」。B&Wの今日の世界的成功の原点がここにある。
ラジオストアの顧客のひとりに、ミス・キャサリン・ナイトという音楽好きの老婦人がいた。ショップを訪れては、彼女の愛してやまないモーツァルトやイタリアオペラについてバウワーズと楽しく語らった。しかし、彼女に残されていた人生の時間は多くなかった。
遺言状のなかで彼女は「このお金を役立てるように」と一万ポンドをバウワーズに遺贈していた。物価の変化まで考えると現在の邦貨にして五千万円になる大金である。これを原資として1966年、B&Wエレクトロニクスがライバルひしめく英ハイファイの世界に名乗りを上げる。B&Wのスピーカーに耳を澄ますと、ミス・キャサリン・ナイトの音楽への愛が時の彼方からきこえてくるはずだ。
P1、P2は手作り的なスピーカーだったが1968年、B&Wエレクトロニクスは、広く一般の音楽ファンにむけた製品を送り出す。「DM1」「DM3」である。DMはDomestic Monitorの略。イギリスだけでなくヨーロッパ各国を視野に入れた自信作は一般の音楽ファンが手にすることのできる価格設定がされていた。
1972年にはユニークなALL(アコースティック・ライン・ロード)方式エンクロージャー「DM2」を発表。ワーシングに程近いミドゥロードに新工場を建設。晴れて量販への体制が整い発売した「DM4」「DM5」では全世界のハイファイ市場が視野に入っていた。
時間が前後するが、1970年に今日のB&Wモニターの原型となるスピーカーが姿を現す。「DM70C(Continental)」である。
初めてドライバーまで内製したことから意気込みのほどがうかがえるスタジオモニターで、曲面形状の密閉形式のエンクロージャーに30cmの低域ユニットが、その上部に広い指向性を目的に緩やかな弧を描く7.5×55cmの静電型ドライバー(11個の振動板が横一列に並ぶ)が乗っていた。
1975年には、低音ユニットと高域ユニットでマウント位置を異にしたリニアフェーズスピーカー「DM6」を発表した。
この時期からインダストリアルデザイナーのケネス・グランジがプロジェクトに参加するようになる。B&Wとのあいだを取り持ったのは、マーガレット王女の夫君、スノードン卿であった。社名をB&Wラウドスピーカーズに改名したのもこの年。いずれにせよ、DM70を出発点にB&Wはモニタースピーカーの覇者の道を歩みはじめる。
ゲームチェンジャー801登場。世界中の音のプロの耳を魅了する
B&Wの日本輸入は1970年、ラックスマンによって始まった。信頼篤い同社によってB&Wスピーカーが日本のオーディオ専門誌の口絵や表紙を飾るが、トレードマークとなったのが黄色いコーンの振動板、そうケブラーコーンである。
ケブラーコーンは、防弾チョッキにも使われるデュポン社の高張力ハイテク織布で成形した振動板で、B&Wがスピーカーで最も重要と考えるミッドレンジ用に長年探し求めて出会った理想の素材だった。織布に硬化樹脂を充填したのちにポリマーコーティングすることで繊維が密封されエネルギーの減衰の度合いが高まり、これは音楽信号を入力した際の安定したレスポンスを意味する。
定在波の抑制にも効果的なことが実験でわかった。理想的なドライバー素材を手にしたB&Wは前出の「DM6」に初搭載。そして1977年、「DM7」を発表する。
中域用ケブラーコーンに加え、低域用パッシブラジエターを一般的なレクタンギュラー(箱型)エンクロージャーに収めていたが、注目すべきはトゥイーターのレイアウトであった。エンクロージャーの回折から逃れるために独立してその上に鎮座していた。現在まで続くB&Wのトゥイーターオントップの原型である。































