公開日 2023/12/31 07:00

【特別対談】ドルビーアトモスで蘇るショルティ《ニーベルングの指環》。奇跡の録音が聴かせる新たな可能性

哲学者・黒崎政男とオーディオ評論家・山之内 正が語る
黒崎政男/山之内 正 構成:ファイルウェブオーディオ編集部・筑井真奈
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現代の技術により、説得力を増すアルベリッヒの呪い



編集部 歌のシーンも聴いてみましょう。「ラインの黄金」第4場の頭、アルベリッヒの呪いの場面からです(SACD では《ラインの黄金》Disc2 Tr.6「兄弟よ、ここにじっと坐っているんだ」)。LPとSACD、ドルビーアトモスを聴き比べましょう。

黒崎 レコードでも、アルベリッヒの呪いの声が本当に下から聴こえてきますね。

山之内 レコーディングも苦労したようで、距離の遠さを表現するために、マイクから離れて収録したんですね。

黒崎 アトモスはレコードよりも明るい感じ。音の質感も悪くないし、安心して聴いていられる。

山之内 アトモスは想像以上の出来ですね。効果音やハープもクリアで、多分これは当時意図した音に近いと思うんですよ。鉄板をぶら下げたり、カルショーたちがやった過激なことを、現代の技術でさらに説得力を持たせたんですね。そんなリマスタリングに感じます。

黒崎 SACDも悪くないね。ちなみに、今回のSACDとドルビーアトモスの音源はどういう関係にあるのですか?

編集部 今回の音源は、2022年にオリジナルマスターから192kHz/24bitでデジタル化したものが元になっています。それをDSDマスタリングするとともに、ドルビーアトモスミックスも作成したようです。

山之内 アトモスについてはリマスタリング用のソフトウェアがありまして、元のステレオの音源からどういう成分を抽出してどのように加えるか、どこに配置するか、どのぐらいの音量バランスにするかっていうのが、コンピューター上で色々設定できるようです。そこいエンジニアの力量がかかってきいますね。

黒崎 なるほど、AIで何かやっているというより、むしろエンジニアの人のセンスが必要なわけだ。

編集部 物語の意図をアトモスをうまく使って表現していますね。

山之内 アルベリッヒを歌うグスタフ・ナイトリンガーという歌手が凄くてね。いま聴いても恐ろしいね。テスト用に録った音源を、あまりにも歌の迫力がすごいんで、1発でOKにしたんですって。

黒崎 《指環》は神々の住まう天上の世界と、ニーベルング族が住む地底の世界、それに人間世界の3つの世界を行き来するんですが、やはり登場人物に説得力がないといけない。単に歌っているだけではなくて、深みが必要なんです。その意味でもこのレコーディングの歌手の力量はみんなすごいね。

山之内 ワーグナーの世界には歌手にもっともっとやろうって思わせるようなとこがあるんですね。そうやって人をドライブする力がある。作曲されてから100年経ってから録音してるのに、こんなすごい演技を引き出してしまうのです。これが怖いんです。今聴いているわれわれだってドライブされてしまって、夢中になってしまう。

編集部 神々といえども弱く醜い部分がありますし、アルベリッヒも色気を感じる面もありますし、とても人間臭いと言うか、一筋縄ではいかない人物描写がなされています。

BBCが制作した《指環》録音の制作現場を追ったドキュメンタリーからも当時の雰囲気が伝わってくる

音だけでサウンドステージを構築するショルティの試み



黒崎 ライトモティーフを意識的に使っているのも、作品に深みを与えていますね。

キャラクターやアイテムなどに特定の旋律(ライトモティーフ)を使用することで物語の展開を予感させるのもワーグナーの手法

山之内 登場人物が出てくる前に、ライトモティーフをチラッと出す。そうすると次に誰が出るってのもわかるし、回想シーンなどで出てくることもあります。そういう仕掛けも、聴いているうちにハマっちゃう要素のひとつですね。

編集部 ちょっと謎解き的な要素でもありますよね。ワーグナー初心者として、《指環》という作品の面白さを感じるのは、演劇というか、視覚的な要素もある舞台として構想されているものなわけですが、このように音楽だけを引き出してもものすごくイマジネイティブである、っていう点もあります。

山之内 ワーグナーは天才で、音楽のフレーズの組み合わせで人の気持ちの高揚感を引き出したり、残虐性を表現したり、あるいは優しさを表現したりっていうのが、ものすごくいろんな方法論を持っています。

黒崎 《指環》の映像作品もたくさんありますが、カルショーがやろうとしたのは、音だけでそのサウンドステージを成立させようとしたんですよね。映像と音の両方があるメリットもあるけど、音だけのメリットもあるんですよ。音だけで作ることによるイメージを掻き立てる力はありますね。近年は演出に凝りすぎた《指環》もあって、演出家の意図をビジュアル的に押し付けられている、と感じるものもあります。だからこそ、映像がない方が自由な聴き方ができる。それは欠落のネガティブではなく、なかったが故の豊かさがあるんじゃないかと思いますよ。

山之内 カルショー自身が、《指環》のレコーディングについて振り返った『ニーベルングの指環 リング・リザウンディング』(学研プラス、山崎浩太郎 訳)という本があります。この本の中で将来のビジョンを描いてますが、いまでいうストリーミングサービスを予想しているようなことも語っています。その時代の技術で最高のものを追求しながらも、それ以外を否定したわけではなく、未来へのさまざまな期待も持っていたんじゃないかと思います。

山之内氏の所有するジョン・カルショー自身が録音の背景を語った「ニーベルングの指環」

音楽家たちの情熱が生んだ奇跡の作品



山之内 ショルティとカルショーの有名な写真です。二人の関係をよく表している写真で、二人とも絶対譲らない気概が伝わってきます。この時にいかに二人が真剣にワーグナーに取り組んでいたかとよく分かる象徴的な写真です。

カルショーとショルティの関係性を示す印象的な写真

黒崎 改めて聴き返しても、ほんとによくぞ作った、という思いですね。16時間を細切れに15分ずつに分けて、ひとつひとつ集中度を高めて録っていく。ライヴとはまた違った緊張感があったでしょうね。音楽家たちの情熱が生んだ、奇跡のような作品です。

山之内 ショルティの《指環》は奇跡のような作品、というのは私も完全に同意です。プロデューサーのカルショーがいて、指揮者のショルティがいて、レベルの高い一流の歌手陣がいて、奇跡のような偶然がその時に集中した時代でしたね。

編集部 「録音芸術」の凄みを感じさせるレコーディングでもあり、それが2023年に改めてドルビーアトモスフォーマットで配信されることで、新しい発見があるというのもすごいことですね。本日はありがとうございました!

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