連載:世界のオーディオブランドを知る(9)変化の時代を勝ち抜いた「オーディオテクニカ」の歴史を紐解く
1本足打法からマイクロホンとヘッドホンのトップブランドへ
1972年、オーディオテクニカUSが設立された。「郷に入れば郷に従え」の訓の通り現地に任せるやり方が奏功して、アメリカでカートリッジのシェアは20%に達した。
エレクトロボイスに勤務経験がある現法の責任者はそれで満足せず、秀雄氏に「カートリッジが作れるならヘッドホンやマイクロホンも作れるはずだ。私が売ってみせる」と進言した。カートリッジもヘッドホン、マイクロホンもトランデューサー(空気分子の圧力変化を電気信号に変える、あるいはその逆の「変換器」)である。
経営は人との出会い、時代の使命と考える秀雄氏はさっそく、開発に取り掛かる。オーディオテクニカ製ヘッドホンは1974年に、マイクロホンは1978年に第1号機が完成した。個人の需要が対象のヘッドホンは日本、アメリカでも売りやすかったが、スタジオなど法人需要が中心の高性能マイクロホンは、まったく別種の販売ルートを構築しなければならず当初は苦戦を強いられた。
しかし、ここでも強い追い風が吹く。1970年代終わりにカラオケブームが到来、みなが市中のスナックやクラブでマイクを握る時代が到来、いっぽうソニーがウォークマンを開発、昭和の大ヒット商品となり、ヘッドホン、イヤホンの売り上げが数十倍に拡大した。しかし、ほんとうの転機がその後にやって来る。
1970年代後半、オーディオテクニカのフォノカートリッジの国内シェアは着実に広がっていたが、秀雄氏は懇意にしていたNHK技術研究所きっての技術者、のちにソニーに転出する中島平太郎氏から酒席で衝撃的な忠告を受ける。
「あなたの会社はいま調子がいいけれど、これからだめになりますよ。レコードのピックアップはもう古い。デジタルオーディオディスク用の光ピックアップを作りなさい」(中島)
秀雄氏とて、世界各国でデジタルオーディオディスクの実用化研究が急ピッチで進んでいることは知っていた。しかし、現在のアナログレコードに短期間で置き換わるのでなく、長い並走の時代を経てゆるやかに代替するものと考えていた。
中島氏の話ではそうでないらしい。利便性、機能性に優れるデジタルオーディオディスクはアナログレコードをあっというまに駆逐する、そんな地滑り的変化がやってくるというのだ。
しかしピンチはチャンスである。光ピックアップはカートリッジのように消耗部品でなく、B to Bの商材であるため、末端の価格競争で消耗しないですむ。秀雄氏は技術者を集めさっそく研究を開始した。しかし、デジタルはアナログと異なる知見が求められ、莫大な資金をかけてもなかなかうまく立ち上がらなかった。
そうこうしている内に1982年ソニーからCDプレーヤー第1号機が発売される。CDピックアップの量産がようやくスタートしたのもこの年。奇しくもオーディオテクニカ創立20周年の年でもあった。
CDの普及は中島氏の予言通り想像を越えるスピードで進み、最盛期月産100万個に対応したカートリッジの生産体制(ライン、人員)の縮小に迫られた。しかし、10年前にスタートしたヘッドホンが業績を支えた。
他社製ヘッドホンの振動板が紙だったのに対し、オーディオテクニカはマイラー材を採用した。美術に造詣の深い秀雄氏が作るヘッドホンは他の機能一点張りの武骨な他社製とひと味もふた味も異なっていた。黒やシルバーだけでなくオリーブグリーンなどのしゃれたカラバリを導入、長時間の快適な装着感に留意してヘッドバンドの材質もソフトなものに改善した。
検聴用を脱した音楽鑑賞用の高級ヘッドホンの出現…。オーディオテクニカによって、ヘッドホンはペリフェラル(関連機器)からコンポーネントのいちジャンルに生まれ変わったのである。
いっぽうのマイクロホン。飛躍的に小型化を果たした「ユニポイント」が大規模な会議の多いアメリカでヒット商品となり、つぎに床置のバウンダリーマイクを完成すると、存在の目立たない特徴を活かし皇居内の式典で使用され、マイクロホンの分野でオーディオテクニカの名を高からしめる。脇役として登場したヘッドホンとマイクの大躍進が転換期の会社を支えたのである。
CD用光ピックアップの生産は軌道に乗りじりじりと伸び、1973年に福井県武生市に開発と生産を一体化した別会社オーディオテクニカフクイを設立、全世界のオーディオメーカーにピックアップを供給するトップメーカーになっていく。
マイクロホンの開発と生産も好調で、1988年のカルガリー冬期五輪でオーディオテクニカ製マイクロホンとヘッドホンが採用されたことをきっかけに五輪公式スポンサーのパナソニック(当時は松下電器)から「いっしょにやりましょう」と提案され、ソルトレイク冬期五輪では2800本以上のマイクロホンが氷点下の厳しい条件下で高性能をみごとに実証した。
決して容易な道のりでなかったが、オーディオテクニカはカートリッジ一本足打法からの脱却に成功したのである。
新社長の松下和雄氏のもと、音楽を総合的に支援する企業へ
元号が平成に変わり5年目の1993年、松下秀雄氏の長男、和雄氏がオーディオテクニカの代表取締役社長に45歳で就任した。大学で工学を学んだ和雄氏はカートリッジのOEM生産で提携関係にあった日本ビクターでの勤務を経て、1974年にオーディオテクニカに入社。営業の最前線などで実務経験を積んでの就任である。
どんな世界でも2代目は割を食うものである。しかも全くの無から日本有数の音響専門メーカーを立ち上げた偉大な創業者の後継者である。45歳という有名企業のトップとして異例の若さもあり、業界に戸惑いが生まれたことは否定できない。しかし、和雄氏を深く知るひとはそうでなかった。
その一人にVGP審査委員長を長く務めたオーディオ評論家、故貝山知弘氏がいた。「和雄氏は父とまったく違うタイプだが、経営者、ビジネスマンとしての才能はむしろ勝っているかもしれない。見ていてごらん。彼は必ずやってみせるから」就任時のインタビューで和雄氏が「歴史書や文芸書好きの父が手に取ろうとしない経営書やビジネス書を逆に自分は面白く読んでいた」と語っていたのを思い出した。
筆者にこんな経験がある。神田須田町の一画に牡蠣バター焼き定食の美味しいとんかつ店があり、PHILE WEBの配信元の音元出版に当時勤務していた筆者はしばしば昼食に訪れていた。ある日、店に入ると、狭い店内の片隅で和雄氏がお一人で食事をされているではないか。
タイミングを見計らってそばに行き、こういう者ですが、記事の取材等でいつもお世話になっています、と名刺を出して挨拶した。和雄氏は「そうですか。御社と私どもは長い付き合いです。これからもオーディオの振興のために一緒にやっていきましょう」と励ましてくださった。
敷居の高い高級店ではない。ごく普通の町の大衆的な食堂である。有名企業の社長が女性秘書も伴わなければ、とりまきの役員たちもつれず、ひとりで静かに定食を召し上がっているのである。
筆者はこのとき、和雄氏が社長室に閉じこもらず、自分の脚と目と感覚で情報収集を欠かさず、自分の頭で物事を考える経験主義者であり実務家であることを知り、若き新社長を心から頼もしく思った。
事実、松下和雄新社長は驚くほどのスピードで経営手腕を実証してみせる。銀行からの借入金をわずか3年で完済、無借金経営に転じる。社長に就任して8年目の2001年までにじつに約73%の売上高のアップを実現する。
日本経済がバブル崩壊を引きずっていたこの時期、奇跡的といっていい。2003年の同社の売り上げ比率をみると、総額約300億円の40%が光ピックアップと半導体レーザー、20%がマイクロホンとワイヤレスシステム、14%がAVアクセサリー(カートリッジ含む)、9%がヘッドホンである。いつのまにか、オーディオテクニカは生まれ変わっていたのである。
松下和雄体制に変わっての変化は、しかしもっと深いところにある。創業以来オーディオテクニカは長くオーディオマニアのために存在した。
オーディオテクニカが創業50周年の2012年に記念出版した書籍「音、音、音。音聴く人々」(オーディオテクニカ編、幻冬舎メディアコンサルティング刊)はオーディオの専門書ではない。
渡邉香津美氏、村治香織氏、鈴木雅明氏ら著名演奏家、フィル・ラモーン氏ら録音プロデューサー、さらにコンサートホールの設計者まで広く取材し音と音楽を全方位からとらえた斬新な視点の書物である。本書はオーディオテクニカがもはやいちオーディオ機器メーカーでないことを告げている。
創業50周年の翌2013年、創業者の松下秀雄氏が逝去した。享年93歳。オーディオと音楽、美術、そして日本の工業技術の国際化に捧げた生涯であった。
アナログからデジタルへの推移、1990年代のバンドブームを経て、音楽はかつてのステレオセットの前で謹聴するものから「演る、作る、遊ぶ、聴く」ものに変化した。さらにモバイルの隆盛を経てネットワーク社会が到来し、現在はストリーミング全盛である。ひとと音楽との切り結び方はこの数十年で大きく変化した。
オーディオテクニカは優れた新経営者のもと、この変化を鋭敏にキャッチ。ハードウェアとソフトウェアの両面で「音楽を創る、奏でる、聴く」に寄り添う企業に変わり、困難な時代に勝ち残った。2001年に竣工した本格的な録音スタジオ、アストロスタジオを備える新社屋、テクニカハウス(東京都文京区)はその高らかなマニフェストといっていい。
ひとと音楽があるかぎり、オーディオテクニカは歩み続ける。

(提供 : オーディオランド)
