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黒崎政男氏と島田裕巳氏が語る

オーディオ哲学宗教談義 Season3の第3回、テーマは「私たちは何を聴いてきたか」『音楽における宗教性』

公開日 2020/10/12 16:18 季刊analog編集部
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音楽の神髄としてのマタイ受難曲

宗教学者・島田裕巳氏(左)、哲学者・黒崎政男氏(右)

黒崎 さて、後半です。前半は、島田先生が宗教学者であられることを改めて思い出しました(笑)。「タンホイザー」の聴き方で面目躍如という感じでした。面白かったですね。

私の方では、宗教音楽そのものをかけてみようかと思います。「マタイ受難曲」。40年くらい前に「これこそ音楽の神髄」と思った、カール・リヒターの一番最初の録音(57年)。高校2年生の誕生日に「リヒターのマタイ受難曲を買ってください」と親にねだりました。8,000円だったと思います。自分にはとても重要なレコードで、高校生以来10年以上バッハ命みたいな時が続きました。

島田 それよりも前に彼を知っていたわけでしょ? 欲しいって言うからには。

黒崎 そうですね。最初はカザルスでバッハ無伴奏チェロ組とか、グールドのピアノでゴールドベルク変奏曲、それからリヒターのカンタータを聴いてきた。それで「マタイ受難曲」にいきました。

最初に傾倒していたカザルスは、復刻盤GRシリーズで。当時から新しい録音よりもSP時代の音楽の方が素晴らしいと思っていたわけ。演奏は古い時代の方がより良いと思っていた。

島田 カザルスなんてどこで出会うの? 中学生の時にさ。

黒崎 どこで……あ、仙台に「無伴奏」という、バッハ以前しか掛けない喫茶店があって、それが非常に大きかったですね。

一同 (笑)

黒崎 バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明さんとNHKのラジオで対談したときに、僕も通った、鈴木さんも行かれていたと盛り上がったら、「無伴奏」を経営していたその方がラジオを偶然に聴いていたということがありました。

島田 どうしてその「無伴奏」に行くことになったの?

黒崎 いやー、どうしてかな。仙台一高でそういう文化があったのか、あるいは僕の親戚のお兄さん……東大闘争で東大を受験できなくて東北大の哲学科に入ったという人がいて、彼に教えてもらったんだと思います。いつもタバコを吸いながら「純粋理性批判」を読んでいる姿は、影響したかもしれないね。

島田 哲学とバッハは一緒。

黒崎 そうだったかも。まぁ、今日は「私は何を聴いてきたのか」というテーマですから、そういうものをかけます。しつこいですけれど、ついに本当の初期盤。大変な代物なんです、これ。ここ、12時のところにステレオって書いてあるのを見ていただけますか? 初期の初期の初期盤は、Archiv版の一番の初期盤。

一同 (笑)

黒崎 この序曲ともいうべき導入の合唱を聴いてみましょう。これは宗教そのもの。プロテスタントのバッハ……ルター派ですから、まさにそのものですけど。

〜カール・リヒター(指揮)、ミュンヘン・バッハ管弦楽団、合唱団/バッハ:「マタイ受難曲」冒頭〜リンKLIMAX LP12SE+オクターブV80SE+タンノイ オートグラフで聴く

黒崎 T群とU群の合唱が「来たれ、娘たちよ、嘆きを聞いて、見よ、だれを、花婿を!」と応答し続ける中、その途中から少年合唱がまるで天上からヒューッと降りてくるように「O Lam Gottes, unschuldig(おお、神の子羊よ、罪無くして)」と入ってくる。

実際に神様は降りて来るわけじゃないと思うけれど、本当にそうなんじゃないかと感じられる。オーディオ的にも録音的にもその立体的な構造が見事なのです。

クリスチャンでもないし、これを聴いて教会に行こうとも思わないけれど、なんと言いますか。つまり宗教そのものが良いと言っているわけではなくて、その大いなるものへの人間の眼差しが良いというか。リヒターの演奏ではその眼差しを感じられるのです。

当時、「マタイ受難曲」は人類の知的遺産の最高傑作であると喧伝され……喧伝という言葉は悪いけど、あらゆる人が言っていた。日本でもヨーロッパへの憧れが強かった時代で、そんな時代においてバッハは西洋文化の核みたいに思っていたんじゃないですかね。

とても醒めた目で見れば、バッハはヨーロッパ中心主義の尖兵……言葉はものすごく悪いけど、そんな側面もあると思います。19世紀に文化的に遅れをとっていたドイツは、フンボルトが、フンボルト大学ベルリンを創立して(1810年)「教養」の文化を高める。

メンデルスゾーンがバッハの「マタイ受難曲」を発掘して復活上演(1829年)する。こうして、ほとんど忘れ去られていた「J.S.Bach」が掘り出された。そして、バッハはクラシック音楽の父という風に作られていくわけです。

戦後我々が聴いたカール・リヒターのバッハというのは、まさにヨーロッパの精神性そのもの。神髄といいましょうか。当時私はうなだれて聴いていたわけではなく、一番精神が高まった時に聴いていました。

終曲も気持ちがいいので、聴いてみましょう。いま装置を換えてもらいました。先ほどはオートグラフで聴きましたが、今度は現代のKLIMAX EXAKT 350で聴きます。

カール・リヒターのマタイ受難曲の初盤を解説する黒埼氏

〜カール・リヒター(指揮)、ミュンヘン・バッハ管弦楽団、合唱団/バッハ:「マタイ受難曲」終曲〜リンKLIMAX LP12SE+KLIMAX EXAKT 350で聴く

カール・リヒター(指揮)、ミュンヘン・バッハ管弦楽団、合唱団/バッハ:「マタイ受難曲」

黒崎 はい、マタイ全曲、聴きました。

70年代のレコード再生では、こういう音はしなかった

黒崎 70年代にレコードを買ってもこういう音はしなかったです。もっと塊で、もっと歪んでいて。いまかけたのは最終曲ですからレコードの最内周ですから、それでこの音がというのはちょっと驚き。あの頃この音楽聴けていたのかな……でも精神では聴いていた感じがする(笑)。

一同 (笑)

黒崎 精神は聴いていたけれども、今の音だと心身ともに浸る感じですよね。あの時は求道的に聴いていた。

島田 プロテスタントの側からすると、宗教改革という出来事は自分たちの信仰が誕生したことになるわけだから、当然高く評価するわけです。では、カトリック側からすればどうなのか。あまり考えたりしないことかもしれませんが、カトリックからすれば宗教改革は決して評価できることではない。むしろ、分派活動として否定的に捉えられるわけです。

その視点が一般にも抜けている。前日、カルチャーセンターでも宗教改革について講義したんですが、カトリック中央評議会という日本の教会組織が宗教改革をどう捉えるかというと、一応、当時の教会の腐敗には言及しているんだけれど、その後の教会改革はプロテスタントに取られた信者を奪回するための試みだった。そういう捉え方をしている。

カトリックの方は宗教改革以降どうなるかというと、「マリア崇敬」へ行くわけ。18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ各地でマリアが出現するんですよ。一番有名なところはフランスのルルドで、そこでマリアが出現するとともに、泉が湧き出た。その影響で、カトリック教会には、日本でもそうですがルルドの泉を模したものが造られている。東京だと、目白台の東京カテドラルにありますね。そういう形でマリア崇敬が高まってきた。これは、信仰と言ってはいけないんですよ。

黒崎 あ、マリア信仰って言ってはいけない?

島田 はい。カトリックの立場だと駄目です。本来の中心は神で、それは信仰の対象だけれど、マリアは崇敬されるものになっている。

宗教学者・島田裕己氏

プロテスタントというのは、「イエス・キリストの発見」という側面がある。新約聖書のイエスのことばを重視するようになった。宗教改革まで、一般の信者は聖書なんか読まない、ラテン語だから読めない状態にあったので、実はイエス・キリストのことなど知らない。重要なのは救済を与える教会であり、ローマ教皇を頂点とした教会制度だった。教会が与えてくれる秘跡にすがる。

プロテスタントがイエスを再発見していく過程で、近代的な確固とした自我を持つ人間像と結びついていく。黒崎さんが哲学とバッハに傾倒するというのは、そういう流れの中に自ずと位置づけられる。

黒崎 そうかもしれないね。個人の発見でもあるかもしれないし、内面の発見でもあるかもしれない。プロテスタントのまさにそういう側面ですね。

島田 それまでは個人の内面なんか重要ではなかった。

黒崎 なかったものだものね。内面重視論というのはその頃から最近までありましたけど、最近もまた薄れてきたような。ともかく、そういうわけで「マタイ」を聴きました。次に、シェリングのバッハ「無伴奏ヴァイオリン」をかけましょう。

「マタイ」は当時母性的な感じがして、聴くと安らかな気持ちになったんですよ。峻厳というよりもむしろ包まれる。その点、シェリングの「無伴奏ヴァイオリン」は……「神」というか、私の精神というか実存という感じだったんですね。

シャコンヌがもちろん有名ですけど、シャコンヌに入る前のパルティータの2番の冒頭が一番好きなので(Allmande)、そこをちょっと聴いていただきたい。これは宗教ではないのだけど、私にとってはスピリット。65〜66年ですね。

みなさんこれご存じですよね? お好きですよね?

一同 (笑)

黒崎 バッハのヴァイオリン無伴奏は、この前にも後にもたくさんありますけど、やっぱりシェリングのこれは特別な演奏だと思う。

〜シェリング(ヴァイオリン)/J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン パルティータ第2番冒頭〜リンKLIMAX LP12SE+KLIMAX EXAKT 350で聴く

シェリング(ヴァイオリン)/J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン パルティータ第2番

黒崎 宗教ではないんだけれどこの音楽を聴くことって一番切迫したものがあった。実存というか、私の生きることの根本にあったんですね。

今ふと思い出したんですけど、私の妻が子供の時にヴァイオリンの神童と言われていて、シェリングの前で演奏を披露しているんです。

一同 (驚嘆の声)

黒崎 いくつくらいの時だっけ?

黒崎氏奥さま (客席奥から)4年生の時……?

黒崎 小学校4年生の時にシェリングの前で弾いたってことは何十年か前ですね。日本に2、3回来ていると思うんですけど。そのシェリングを私は高校生の頃に聴いていました。


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