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【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち

第15回:森山威男さんが語る「ピットイン」との激動の時代<後編>

インタビューと文・田中伊佐資

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2011年02月15日
今回は、フリージャズを指向した山下洋輔トリオのドラマーとして、「新宿ピットイン」などで大活躍し、その後も様々な活動を続ける実力派、森山威男さんに登場していただき、佐藤良武さんとの対談形式で、ドラマーを目指した経緯から、ピットインとの深い関わり、激動の時代の思い出を語ってもらう(前編を読む)。


この生き方でいいのかと深く考えてみたいと考え
山下洋輔トリオを辞める決心をした


山下洋輔トリオのライヴは戦い
72年に坂田明を引っ張り込んだ



佐藤良武(以下佐藤):前回は60年代末から70年代にかけて山下洋輔トリオが旋風を巻き起こす、というところで終わりました。でも当初トリオはそれほど人気が無かったですよね。

森山威男(以下森山):あんなむちゃくちゃなジャズを誰も我慢して聴いていませんでしたよ。なんだこれって、すぐ帰っちゃった。ところが毎週「ピットイン」でやっているから、1人2人と居着くようになり、口コミで広がったんですね。良い悪いは別にして、確かにあの音楽は魅力的だったんだろうなと思います。人間が命がけでそこまでやるかということをお客さんは目の当たりにして、それだけでもう感動したんじゃないかな。こっちも「ひとつのことに打ち込むということはこういうことなんだ」と気概を持っていましたからね。

佐藤:感情の爆発でした。

森山:私は音楽をやっているという意識はあまりなかったですね。

佐藤:ある種のスタイルでした。

森山:たぶん山下さんがここにいたら「そんなことないよ。自分は音楽やっていたよ」と言うんだろうけどね。まあ、戦いでしたね。山下さんが立派なのは、私が好き勝手にやっているのを見て「ドラマーが周りのメンバーを気にせず自由奔放にやれるバンドでないと面白みがない」と言い切っていたことです。いま考えるとあの人は人を使うのがうまいよなあ(笑)。

佐藤:(笑)。ところで、トリオの初代サックス奏者は中村誠一ですが、彼はオーソドックスなジャズを志向していて、72年に坂田明さんに替わります。坂田さんはどういういきさつで加入したんですか。

森山:坂田は私が連れてきたんです。「ピットイン」出演の日に、管楽器が欲しいと思って誰でもいいからつかまえてやれと、2階の「ニュー・ジャズ・ホール」に飛び入りしたんです。その時ちょうど彼が演奏していた。この音なら自分たちとやり合えるなと思って、その晩引っぱってきたら、山下さんも気に入ってくれました。

佐藤:ピタッと息が合ってました。

森山:私も坂田もジャズのスタンダードができないということも一致していた(笑)。


今回のインタビューも新宿ピットインのスタジオ内で行われた。長い経歴を持つ森山さんからは貴重なエピソードも飛び出し、場は盛り上がった

ドイツで反響を呼び海外で受け始めた
スロベニアの観客の興奮度は凄かった


佐藤:山下洋輔トリオは全国的な規模で人気が出て、やがて海外に飛び出すことになります。

森山:日本での人気は、時代的な背景が後押しになって、浪花節的な情緒や感情が日本人に訴えるのかな、ぐらいに思っていました。だからまさかヨーロッパに行っても受けるとは思っていなかったですね。

佐藤:最初の公演はどこだったのですか。

森山:ドイツのメールス・ジャズ・フェスティバルです。出演者の大半が学生でした。演奏が終わってもシーンとしてるんです。ああ、まったく受けなかったと思ったら、ウワーッと後から大歓声が来ました。その場で、来年もこのグループを呼ぶぞとアナウンスがあって、またワーとなって、その場で契約書にサインしました。

佐藤:もちろん、お客さん全員が初めて聴いた音楽ですよね。

森山:そうです。ぼくらはまったく無名でしたから、大したジャズファンだなと思いましたよ。ルックスも悪いしね(笑)。

佐藤:その後何度も山下洋輔トリオはヨーロッパに渡るわけですが、第1回のツアーは74年の5月ですね。最終地はベルリン・ジャズ・フェスティバルで、どこへ行っても大喝采でした。

森山:スロベニアのユブリアナという避暑地でのコンサートは凄かったです。お客さんが興奮しちゃって、次のバンドが出て行けないんです。ステージの前に警察が出動しましてね。時間の制約からアンコールをやらない取り決めだったのですが、収拾がつかなくなってやりました。


これ以上山下さんと一緒に続けたら抜き差しならなくなると思い脱退

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