連載:世界のオーディオブランドを知る(8)不滅の名声とどろく「タンノイ」の歴史を紐解く
大橋伸太郎これまでに多くの世界的なオーディオブランドが誕生してきているが、そのブランドがどのような歴史を辿り、今に至るのかをご存知だろうか。オーディオファンを現在に至るまで長く魅了し続けるブランドは多く存在するが、その成り立ちや過去の銘機については意外に知識が曖昧……という方も少なくないのではないだろうか。
そこで本連載では、オーディオ買取専門店「オーディオランド」のご協力のもと、ヴィンテージを含む世界のオーディオブランドを紹介。人気ブランドの成り立ちから歴史、そして歴代の銘機と共に評論家・大橋伸太郎氏が解説する。第8回目となる本稿では、「タンノイ(TANNOY)」ブランドについて紹介しよう。
オーディオの変遷の流れの中に聳え立つ、「タンノイ」という大樹
デュアルコンセントリック(同軸)型ユニットを、巧緻を尽くしたエンクロージャーに収めた数々のタンノイ・スピーカーシステムの名声は、もはや神話の域にある。
Autographを筆頭にGRF、YorkからWestminster、Kingdomといった名機の系譜...。その名を聞くだけで、深々と響く低域とシルキーで雅やかな中高域のタンノイサウンドがひたひたと寄せてくる。他と隔絶したスピーカーの貴族といっていい。
しかし、第二次世界大戦前にタンノイが整流器の製造を始め、信号機やパブリックアドレスといった公共設備の製造をもっぱらとし、自社製マイクロフォンのシビアな性能評価のため、ゆくりなくも2ウェイ同軸スピーカーユニットを開発。その性能の高さが評判になり、音楽鑑賞用スピーカーシステムを手がけるようになった経緯は意外に知られていない。
当初その活躍の場は、録音スタジオや放送局の検聴用にかぎられていたが、本国イギリスをはじめ熱心な音楽愛好家たちは、高忠実で緻密な音質を見逃さなかった。戦後のハイファイ普及の波に乗って美しいエンクロージャーをまとい、かれらのリビングルームに迎えられていく。
1970年代、生産と消費の両方で世界のオーディオの中心地のひとつにのしあがった日本の耳をタンノイが魅了する。
最初はごく少数の裕福な愛好家に迎えられたが、深々と鳴り響くその音に、ひとりまたひとり共鳴者が生まれ、渇望されていた宗教のようにしみわたり、この国の「聴くことの風土」を変えてしまう。クラシック音楽への純朴な崇敬と結び付いて「西方の音」の象徴としてのタンノイは音楽ファン、オーディオファンあこがれの対象となっていく…。
それから数十年。オーディオがアナログからデジタルに変遷した21世紀のいまも、タンノイのスピーカーは営々と作り続けられている。栄枯転変の休みないスピーカーの世界、多くの新星が登場し消えていくが、タンノイは不動の地位にある。これは奇跡に近い。いちばん驚いているのは、創業者のガイ・ルパート・ファウンテン氏(1977年没)ではないだろうか。
なぜタンノイだけが特別なのか。不滅の名声はどうして生まれたのか。その謎を解き明かしていこう。
ふたつの大戦の “狭間” の時代、物語は整流器の製造から始まった
タンノイのスタートは、ガイ・ルパート・ファウンテン氏がロンドン・ウェストノーウッドに、ガイ・R・ファウンテン社を設立したことに始まる。1900年ヨークシャーに生まれた彼は1920年ロンドンに上り、自動車製造はじめさまざまな就業と起業をくりかえしていくが、それは前史にすぎず、ファウンテン社がタンノイのオリジンといっていい。1920年の欧州情勢を思い起こしてほしい。
第一次世界大戦は、人類が初めて目の当たりにした機械化戦争だった。飛行機、戦車、潜水艦、毒ガス、そして無線通信が戦争の様相を一変させ、深い衝撃を与えた。兵器はさまざまの副産物を社会に産み落とし、産業界はさまざまなイノヴェーションの開花と工業技術の躍進に沸き立った。
そうした新技術の一つが電子技術であり、世界情勢を時々刻々と伝える家庭用ラジオが時代の花形だった。
ラジオには安定した電源が欠かせない。そのかなめが電解整流器であることに注目し、ファウンテンは製造に乗り出す。タンタルと鉛の合金(Tantalum-alloy)を材料としたことから略してTannoy。これを商標に掲げ、ファウンテン社は始まった。1926年のことだ。
1930年代になり、映画界をトーキーが席巻する。アメリカのウエスタンエレクトリック、RCA、ドイツのシーメンスのトーキーシステムが銀幕の奥からアル・ジョルスンやグレタ・ガルボの肉声を響かせ、世界の観客をときめかせた。大型ホーンを備えた恐竜のような劇場用ラウドスピーカーがぞくぞく出現、いきおいそれを駆動するための大出力アンプが求められた。
音響技術の革新の波がイギリスにも押し寄せ、ファウンテン社が整流器の次に乗り出したのが、この音響技術分野だった。アンプにしてもスピーカーにしても、高性能な製品が生まれるには、信頼性の高い測定機器の存在が不可欠だ。こうしてタンノイ・リサーチ・ラボラトリー社が発足、各種計測機器の開発を担うことになる。
さて、スピーカーの周波数特性や音圧レベルを正確に測定するために、高感度で高忠実度のマイクロフォンがかかせない。ファウンテンはさっそく高感度マイクロフォンの製造に着手する。しかし、ニワトリと卵のたとえのごとく、そのためにはマイクの性能の基準となるスピーカーが必要だ。
そうして、初のタンノイ製スピーカー「CD4」が1933年に誕生する。ウーファーは励磁型12インチ、トゥイーターはコーン型1・1/2インチのドーム型を採用、それぞれにレベルコントロール、トゥイーターは周波数特性の補正回路を持ち、クロスオーバー1500Hzという先進的な構成だった。ただし、同軸ユニットではない。ウーファーの初期型はアメリカ・マグナヴォックス社製だったが、3年後に自社製に切り替わる。
この2ウェイスピーカーを端緒に、タンノイ社はマイクロフォン、アンプ、パブリックアドレス装置等々の音響機器を続々生み出していく。もうロンドンの下町のガレージメーカーではない。1934年自社工場を設立し、イギリス、いや欧州の先進企業を代表する一社に名乗りを上げたのである。
ロンドン市民はスピーカーでなく “タンノイ” と呼んだ
欧州情勢はふたたび風雲急を告げ、市民たちは不安をやわらげる正しい情報とコミュニケーションを求めていた。ロンドンはじめイギリスの大都市の鉄道駅や街頭に、緊急情報を報せるパブリックアドレスのスピーカーが設置されるようになった。その大半にTANNOYの商標が刻印されていた。
当時大半の市民はスピーカーというものに馴染みがなく、彼らは天井に埋め込まれたそれら声の出所を「スピーカー」でなく「タンノイ(TANNOY)」と呼んだ。
またこの時期、学校の校内放送用にタンノイの蓄音機が、英軍や市民防衛隊用にタンノイのラウドスピーカーセットが、それぞれ納入された。ニュースが、音楽が、タンノイを通じて語りかけてきた。
放送産業の進化とともに歩んできたタンノイとイギリス公共サービスとの関りは深い。1932年、イギリス最大の鉄道会社・L.M.S(London, Midland and Scottish Railway Company)と契約し、全ての駅にタンノイのPAシステムが採用された。
1937年のキング・ジョージ6世の戴冠式でもタンノイのPA装置が活躍。R.A.F.(ロイヤル・エアフォース)との関係も深く、1943年までに約700か所の飛行場にタンノイのPAシステムが納品され、「TANNOY=信頼性の高いコミュニケーションツール」という認知が広まり、スピーカーを「タンノイ(TANNOY)」と呼ぶ英国独特の文化が定着したのだ。
2010年に公開され、アカデミー作品賞を受賞したイギリス映画に『英国王のスピーチ』がある。兄の退位でゆくりなくも王位を継承したジョージ六世は幼い頃からの吃音に苦しみ、ラジオのスピーチに耳を傾けていた国民は頼りない新国王に失望した。しかし、妻のみつけたカウンセラーの型破りの指導に渋々従ううちに吃音は改善、みるみる自信をつけていく。
ときあたかも第二次世界大戦勃発、戦局が深刻化しても疎開を断固拒否、ドイツ軍の空襲にさらされるロンドンに市民と共に留まりつづける...。この映画のクライマックス、ジョージ六世の力強い声が、すべての英国民に向けてラジオから流れる場面はまことに感動的である。これは筆者の想像に過ぎないが、英国民たちはロンドンの街頭で、鉄道駅構内で、タンノイのパブリックアドレスから流れる国王のスピーチに耳をかたむけ、心を励まされたに違いない。
やがて戦争が終わる。1952年、「善良王」ジョージ六世は王位を長女に譲位、エリザベス二世女王が誕生する。トラファルガー広場で催された「Royal Greeting(祝典パレード)」でパブリックアドレスの大役を受け持ったのは、やはりタンノイのスピーカーとアンプだった。
こうしてみていくと、戦前・戦中のタンノイからは公益性と社会貢献が切り離せない。終戦後に国連が発足、パリの臨時本部を経てニューヨークに本部を構えるが、会議場で「声」の役割を担ったのはやはりタンノイだった。
業務と民生の両面で社会に欠かせないコミュニケーションを背負っていくタンノイ。そこには「公」に奉仕する、頑固とさえ評していい気骨がそなわっている。終戦の2年後、タンノイは “あの” 同軸ユニットを世に送り出す。ここから「私たちのタンノイ」の歴史が始まる。
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