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【連載】PIT INNその歴史とミュージシャンたち

第16回:渡辺貞夫さんが語る「ピットイン」とジャズに生きた日々<前編>

インタビューと文・田中伊佐資

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2011年07月25日
今回は、特別編として、「ピットイン」を創成期から支えてきた日本を代表するミュージシャン、渡辺貞夫さんに登場していただき、佐藤良武さんとの対談形式で、サキソフォンを手にした経緯から、ピットインとの深い関わりや思い出を語ってもらう。

「ブルースの誕生」に憧れ初めはクラリネットを入手
高校の時から演奏で稼ぎ始めた


中学の時にFENを聴き音楽に夢中に
15歳でクラリネットを買ってもらった



渡辺貞夫さん(左)と、(株)ピットインミュージック 代表取締役 佐藤良武さん(右)。

佐藤良武(以下、佐藤):貞夫さんとは「ピットイン」の開店当初からのおつきあいですので、積もる話は山ほどあります。まずはずっとそれ以前の少年時代からじっくりうかがいたいんですけど、やっぱり音楽が好きな子供だったんですか。

渡辺貞夫(以下渡辺):小学校のときに唱歌の授業があって、みんな「嫌だ」と言っていて、自分も合わせていたんだけど、心の中では相当好きでしたね(笑)。父親が琵琶師だったこともあって、音楽がまったくない家庭ではなかったです。ただ琵琶にはまったく興味を持てなくて、蓄音器を持っていた母親の妹のところへ行っては、昔の流行歌をよく聴いていました。音楽に夢中になったのは、中学に入ってからです。FENのラジオ放送から聴いたことがないアメリカのポピュラーソングやジャズ、いろんな音楽が流れてきた。学校から飛んで帰ってきてはかじりついてました。

あの頃、アメリカの文化政策で音楽映画がよく来ました。私の一学年先輩のお父さんが地元の宇都宮で電気館という映画館の支配人をしていて、ただで観せてもらってたんです。そのなかに『ブルースの誕生』という映画があった。

佐藤:ビング・クロスビーですね。

渡辺:彼がバンド・リーダーになる話なんだけど、黒人たちが波止場でディキシーランドジャズを演奏しているところに、少年が飛び入りでかっこよくクラリネットを吹くシーンがある。それに憧れてクラリネットがもう欲しくて欲しくて。そしたらたまたま市内の楽器屋のショーウインドウに中古がぽんと1本立っていた。3000円でした。父親にしつこく買ってくれと迫って、やっと買ってもらった。

佐藤:何歳の頃ですか。


サックスプレーヤー・渡辺貞夫さん
渡辺:15歳ですね。ところが買ってもらったはいいけれど、持ち方すら分からない。偶然にも小学校の前にある駄菓子屋のおやじさんが無声映画でクラリネットを吹いていたことを知った。店先で3日間だけ2オクターブぐらいの指遣いと吹き方を教わってね。レッスン料は1日10円。それから先は自己流です。

佐藤:もちろん高校に入ってからもクラリネットは続けていた。

渡辺:その映画館の支配人が街のダンスホールでタンゴバンドをやっていてね。そこに入れてもらって、一晩100円のギャラで演奏してました。

佐藤:早熟ですね。

渡辺:当時は楽器を持っていればさまになるので、まぜてもらえたんですよ。そうしたら鬼怒川温泉ホテルで、週末ごとに進駐軍の仕事が入ってきた。でもその頃は進駐軍の施設や物資を用意する特別調達庁という機関があって、そこのライセンス・カードがないと演奏ができなかった。AからDまでミュージシャンのランクが書いてあって、スペシャルAだと一晩に2500円ももらえた。

佐藤:それは破格だ。

渡辺:自分も査定してもらって届いたカードを見たら、採点されていない。あまりにもヘタすぎたため(笑)。でも仕事はあるので、Dの下のEを特別に作ってもらった。カードには18歳と書いたけど、実際は16歳で週末ごとに一晩で300円を稼いでいました。


ステージに飛び入りしたのがきっかけでサキソフォンに転向することになった

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