• ブランド
    特設サイト

巻頭言

市場創造こそ宿命

和田光征
WADA KOHSEI

1972年6月に「オーディオ専科」を創刊したことは前にも述べて来たが、私は業界にいかにして貢献すべきか自問自答を繰り返していた。そしてたどり着いたのは、「業界」をメーカー、販売店、ユーザーの三位一体で認識すること。一般論では業界とは、メーカーと流通の総体である。しかしそこにユーザーを加えることによってそれぞれの在り方が変わって、ユーザーオリエンテッドが中心軸として機能し始めるから面白い。私たちマスコミはその観点で、機能的に動くことが重要である。

ユーザーがいると言う事は、まずユーザー創造が第一。それにディーラー、メーカーが加味されることによって、市場が構築されるのである。私はそうした認識から、己が自ら市場創造を図るべきであり、それが業界への大いなる貢献になるのではないかと考えた。

そして1970年春に「テープ元年」を宣言、カセットテープ、カセットデッキに関連する20社あまりを集めてシンポジウムを開催した。当時カセットテープは海外販売は別にして、国内ではTDK、シンクロテープしかなくほとんど流通していなかった。一方でFM東京がこの年の4月26日に開局して、FM放送をカセットテープに録音することが団塊世代を中心に流行しようとしていたのである。

当時私は25歳。カセット時代の到来をシンポジウムで数十分間に亘って論じた。そして各社単独でなく業界あげての動きで市場創造を図るべきで、これが最も重要であると訴え賛同を頂いた。関連する特許も持っていた発明王の中松義郎氏も参加していて、「和田さんの主張、誌面でよく読んでいますよ」と言われ恐縮したのだった。

1971年にはカセットデッキ、1972年にはカセットテープの市場に多くの会社が参入して商品が増えた。FM放送で流れる音楽やLPからの録音にカセットテープは大きな役割を果たし、更に拡大基調にあった。1972年に創刊した「オ―ディオ専科」が業界の専門誌として、まさにカセットテープマーケティングの主媒体となって、市場創造をリードしていた。やはり革命にはプロパガンダが必要だが、カセット革命とその教宣活動をオーディオ専科が担い、全国流通への情報戦でも大きな役割を果たした。

一方で1973年にオイルショックが起こり、省エネや燃料の浪費を回避する基調となり、産業界もオーディオが構造不況業種になるなど大不況の嵐が吹き荒れた。私はテープ等が石油製品だったことから影響を心配したが、各社の新製品は順調に投入された。そして音元出版は、1973年を締めてみると過去最高の売り上げを達成していた。テープ業界の全面的な応援に助けられたと、今でも語り草となっている。

1977年に書店売りを開始したAA誌1980年夏号の14号では、カセットテープとカセットデッキの大がかりな相性テストを実施した。その規模のあまりの巨大さに、私は「スクランブルテスト」と命名した。そしてオーディオファンに大規模で詳細なテストがスクランブルテストとして常識化し、今日も続いている。

ENGLISH