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公開日 2025/02/14 06:30
<ライブ>と<オーディオ再生>の補完的関係を考える

音楽の力がもたらす大いなるカタルシス ー哲学者クロサキ、ベルリンで『ニーベルングの指環』を全夜観劇する(下)

黒崎政男
2024年5月にベルリンで開催された、ワーグナー『ニーベルングの指環』全四夜公演。あまりにも重厚長大なストーリーのため、全四夜通しで演奏されることも珍しいオペラの超大作である。その公演を、哲学者の黒崎政男氏が鑑賞。普段は「ワーグナーをレコードで楽しむことが多い」オーディオ愛好家の黒崎氏は『指環』をどう見たのか、第一夜・第二夜の(上)につづいて、クライマックスに至る第三夜・第四夜をレポートする。

ドイッチェ・オーパー・ベルリンにてワーグナーの『ニーベルングの指環』を四夜鑑賞

■<ライブ>と<オーディオ再生>の補完的関係



指環二夜の前半部が終了して、後半部までは数日の中休み。この間を利用して、オーケストラでシンフォニーの演奏会を二つ聴いた。一つはパリで、クラウス・マケラ指揮パリ管で「マーラー4番」、もうひとつはベルリンで、グザビエ=ロト指揮、ベルリン・フィルで「ブルックナー3番」。

このふたりは私の大好きな指揮者なので、中休みにタイミングよく聴けたのは、なんと幸運なことか、と思った。しかもフィラルモニ・ド・パリとベルリン・フィルハーモニーという2つのコンサートホールを体験できたのである。

ワーグナーのオペラは、舞台で見なくなって久しい。だが、シンフォニーのほう、とくにマーラーとブルックナーの交響曲は演奏会でライブで聴きたい、という欲望がここ数年私のうちに込み上げてきていて、サントリーホールや墨田トリフォニーホールなどに頻繁に出掛けては、マーラーとブルックナーばかり聴くようになってしまっている。

ライブに夢中など、オーディオ愛好家としては、風上にもおけない所業ではある。しかしながら、オーディオ装置を進化させて大編成のオーケストラの<再生音>が魅力的になっていくのと正比例して、逆に<生>を聴きたいという欲望がどんどん大きくなってしまっているのである。

ここには<ライブ>と<オーディオ再生>との興味深い相互補完的関係が存在している。好きなときに自分の都合で聴けることが<オーディオ>の魅力だが、オーケストラの<ライブ>は大人数の人間がひとつのものを一団となって作り上げるときに噴出するエネルギーや<気>。それを真正面から直接浴びる喜びなのかもしれない。

■三夜目「ジークフリート」ヘアハイムの演出が光る



冒頭から、台本には登場しない(つまり歌わない)ヴォータンとアルベリッヒが登場していて、上と下から、ジークフリートを挟んで、様子をじっと見ている。とても演劇的である。

ジークフリート 第一幕

鞄が今度はいい雰囲気の岩石群を形作っていて秀逸な光景である。第一幕は音楽は豊かだが、ヴィジュアル的な場面としては単調で動きが少ない。だが演出家ヘアハイムは、この場面を実に具体的に面白く描いている。

砕かれた剣ノートゥングをジークフリートが鍛え直すのだが、あたかも日本刀を作り上げる過程を丁寧に見せる刀作り講座といった趣だ。溶かす、削る、叩く、焼き入れ、などの作業をほんとに事細かくジークフリートにやらせているのである。実際にヤスリで、折れたノートゥングを削ってこなごなにしている。鍛冶屋の道具を総動員させて、実にリアルに剣を作り上げる。

歌手はたいへんだろうが、これがなかなか面白い。しかもワーグナーの台詞自体が非常に細かく具体的で、だから歌詞と動作がぴったりあっているのである。オケの弦は、実に完璧な刻みを正確に鳴らし続ける。オケの鳴りが申し分なくとてもうれしくなる。

さらに回りでちょこちょこ動くミーメ役のヤ=チョン・ホアンのキャラが立っていて、場面を飽きさせない。巨大なふいごがずっと回りで上下に動いているのも面白い。

第一幕 ふいごの前のミーメ

さて、こうやって剣ノートゥングが完成していくのだが、すると見事なシーンが現れる。「世界の支配者を創り出す純金の指環…世界はひれ伏し、世界は震える…」という歌詞に重ねるように、巨大な布に、世界地図のマッピングが現れるのだ。

これはすごい。世界の支配とはつまり、地球の支配、ということか、とはっとさせられると同時に、チャップリンの映画「独裁者」でヒットラーが地球儀を風船のように遊んで恍惚としている有名なシーンを思い起こしてしまう。

しかも、最後は、この地球をノートゥングで一刀両断にしてみせるのである。実に見事な第一幕幕切れの演出である。それにしてもこの幕はジークフリートが約1時間歌いっぱなしである。『指環』全曲が上演できるかどうかは、このようなジークフリート歌いが存在しているどうかにかかっているのを痛感する一幕だった。

世界地図のプロジェクションマッピングが効果的に活用される

■人間ドラマを昇華し統一するワーグナーの力量



三幕の終結の場面に飛ぶ。ジークフリートがついに、眠っているブリュンヒルデに出会うシーンだ。

ブリュンヒルデ役はリカルダ・メルベートだが、素晴らしいの一言に尽きる。ひとつひとつの言葉に深い情感が込もっていて、かつて、ジークフリートの母親を助けたこと、ヴォータンとの葛藤の末のさまざまな出来事などの回想が深々と表現されている。

「ジークフリート牧歌」に入るところでは、オケも素晴らしく美しいピアニシモで、ふと転調しながら晴れやかな気持ちになる変化のところなどは本当に絶品の表現。

ワーグナーは「ワルキューレ」でもそうだが、前半のごちゃごちゃな人間的ドラマを、最終三幕で見事に昇華し統一する力量を持っているのがすごい。最後は、すべては崇高ともいうべき次元に音楽を持っていくのである。このあたりで、改めてワーグナーってすごい!と感激している私だった。

■暗示的なことを、すべて赤裸々に明示化する演出



もちろん、演出家ヘアハイムは音楽が崇高になっている場面でも、そこに浸らせてはくれない。わざわざ下着姿の若者たちを登場させて、露骨なセックスシーンを、二人の主役の回りでながながと繰り広げてさせるのである。うーん、じゃまな!とは思う。

演出家は、ブリュンヒルデとジークフリートが一つになるという台詞の暗示的な意味を、赤裸々に明示化すれば、こういうことを意味しているのさ、といわんばかりの場面演出である。ジークフリートが叫ぶ「ぼくのものになってくれ(Sei mein)」というのは、具体的には、回りで繰り広げられている行為のことを意味しているのだ、と言いたいわけなのだろう。

この赤裸々な明示化こそ、この演出家ヘアハイムの演出の特徴なのだろう。しかし、「ラインの黄金」「ワルキューレ」でさんざんこの手の演出を見てきた我々には、あっ、またやっている、と思う程度で音楽の崇高さ、高貴さは汚されることはなかった。演出より音楽の力のほうがはるかにまさった終幕だった。

ジークフリートがブリュンヒルデを発見するシーン

■四夜目「神々の黄昏」周囲の観客との一体感が発生



四日目である。席は四夜とも通しで買っているので同じ席。お隣も前もみんな同じ人々だ。日を重ねるにしたがって、同じ労苦と喜びを味わっている人びとなので、なんとなくお互い親しみがわいてくる。話し込むまではいかないが、だんだん笑顔で会釈を交わすようになってくるから不思議である。四夜通しだと、観客の間にも一体感が発生してくるのが面白かった。

四夜目には周囲の観客とも一体感が生まれてくる

さて「神々の黄昏」の一幕の舞台が開くと、ええっ?あれっ?っていう驚きが私に(そしておそらく会場中に)走る。いままで、幕間で休んでいた会場のあのホワイエ(休憩ホール)がそっくりそのまま、舞台上に出現しているのである。

ベルリンドイツオペラの休憩ホール(ホワイエ)が、そのまま舞台上に出現

あれ、今いた後方にあるホワイエがなんで舞台上にあるわけ?合唱の男女は、ちょうど観客のように美しく着飾ってシャンパンなどを飲んでおり、そのなかにジークリートとブリュンヒルデだけが古い時代の衣装をまとって登場する。この演出は、時間や空間感覚の惑いや、現実と演劇空間の交錯をもたらすが、それがなぜか心地よい。ここは完全に演出家にしてやられたなあ、と脱帽した。

ジークフリートがハーゲンらに「忘れ薬」を飲まされて、ブリュンヒルデのことを忘れ、目の前のグートルーネにすぐ恋してしまうシーン。なんでジークフリート、そんなことになってしまうんだ、と観客がやきもきしてしまう場面だが、この場面のクレイ・ヒレイの歌唱はほんとにすばらしかった。

ジークフリートが忘れ薬を飲まされるシーン

「たとえすべてを忘れても君への愛だけは忘れない、ブリュンヒルデ」。オケの演奏にも、万感こもる箇所だった。オーディオでレコードを聴いている場合には、このような深い感慨を覚えることはないのか。いや、レコードだってありうる。しかし、生の場合には、ふとした場面が強烈にこちらに突き刺さってくることがある。ぐわっと泣けてしまった。

大男ハーゲンの存在がやたらと光っている。場を支配し、全体を目配りしていて、知的におそろしい。アルベリッヒが恨みで動いているのに比較して、さらに怖さが目立った。それは演出家の意図でもあったろう。ヘアハイムの演出は、この「黄昏」がもっとも自然で美しく、よく出来ていたと思う。

台本を役者たちが読みながら劇を進行させるという、ちょっとメタな視点を入れ込むことにも成功している。「あれ、次歌うのは俺だっけ?」といわんばかりの態度で、台本をあっちこっちめくりながら進む。また、いい場面では、誰かが必ずピアノを弾くしぐさをする。

たしかに、その場面はこちらでも歌いたくなるようなライトモチーフの特徴的な鳴り方をする場面なのである。ヘアハイムは相当にワーグナーの音楽を深いところで理解しているな、と感じさせる。

■音楽の力が大いなるカタルシスを与えてくれる



また、一貫してメルベートの歌唱が素晴らしい。やはり、「黄昏」の終幕も、メルベートの絶品の歌唱で、この全四夜を見事に締めてくれた。「ワルキューレ」も「ジークフリート」も終幕の見事さを実感できたのだが、この「黄昏」の終幕はさらに大いなるカタルシスを与えてくれた。ワーグナーの音楽の持つ力が、結局は、私たちを大いなる満足とカタルシスに導いてくれる。

奥に鞄の山、手前に柱。奥のほうでジークフリートが危険な目にあうぞ、とぞくぞくとさせられるシーン

そもそもこんな大作の楽劇を聴くためには、観客の側にも大きな決意とエネルギーと体力が要求される。終曲の救済とも法悦ともいえる音楽に身を浸しながら、延べ16時間に渡った音楽劇の最後で、ああこの瞬間が永遠に続いてくれるように、と私は思った。(私は、いったいどんなに体力があるのだ、と自分自身驚かざるを得なかった)

■ワーグナーは舞台なのかレコードなのか



今回の生の舞台の凄さ。セットが極めて豪華で、大がかりであり、これは引っ越し公演などは不可能だろうなあ、と思った。まさにこの場所にやってこないと見れない舞台なのだと感じた。しかしそのために費やすエネルギーはとてつもなく膨大なものだ。自宅でレコードでワーグナーを味わうための労力はこれに比べたら微々たるものだ。

生とオーディオの比較、という大それたテーマは機会を別にゆずるとしても、暫定的にいえば、それぞれは相手を補完する相互補完関係を形作るということになるのだろう。

今回舞台を観ているときには、かつてレコードで聴いてきた名演奏たちが、その光景に深い意味づけを与えてくれたし、また逆に今後レコードでワーグナーの音を聴くときには、舞台でみた今回の光景がその音楽にカラフルな味わいを添えてくれるだろう。

ショーペンハウアー的「絶対音楽」性と、ワーグナー的「総合芸術」性が、ここでは弁証法的構造をなして、見事に絡み合っているのである。

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