父の存在

音元出版会長 和田光征の「巻頭言」2019年11月:音元出版での活動の根源となった父からの教育

音元出版会長 和田光征
2019年11月29日

父の存在


令和元年7月27日の株主総会で、私の後継として52歳の永井光晴くんを社長に指名し、私は代表取締役会長に就任した。私が小社に入社したのが1968年4月、そこから51年の歳月が流れており、私自身は5月13日で75歳になっていた。

私が入社した1968年は、秋頃に会社が分裂して社員が辞めていった。残ったのは当時の岩間社長と奥様、そして短大卒の女子社員と私の4名だけだった。私も離反組から強力な誘いを受けたが、採用していただいた岩間ご夫妻に感謝の念がいっぱいだったので同意せず、何としてでもこの苦境を乗り越えたいと思っていた。

23歳だった私がなぜそう思ったかと言えば、残った4人で男性は社長と私だけ・・・。社長は病気がちで会社に来られないことが多かったからだ。自分が皆を支えなければと思ったのは、父の教育の影響が大きかった。私は少年の頃から、父親によく「頭がよくても人間ができていなければ駄目だ」と言われ、“人間性”について徹底的に教育された。九州人なので、いわゆる西郷南洲の教えそのものだった。私はその教えを守って行動し、それは今も変わらない。

私の家は9人兄弟だったので、子供の頃は学級費やPTA会費を工面するのも大変。父が部落を回って借金してくるため、お金のことは夜までに申告するのが決まりだった。ある日妹が登校する朝に申告して父から叱られた。父の複雑な顔を見て私は、畑を貸してほしいと言った。中学3年生の頃だ。カボチャを育てて売りに行くと言うと、長男が同じことをしていたので父は困った顔になったが、「兄さんの邪魔はしないよ」と言うと嬉しい顔をして、畑を4坪ほど貸してくれた。

大家族の実家では直径2mほどもあるちゃぶ台を囲んで皆で夕食をとっていたが、この頃私は畑の手入れに夢中になって夕食に遅れ、父や兄、姉がよく呼びにきた。夜の9時頃まで作業することもあった。私はカボチャを売って稼いだ金を父にすべて渡して、自分がとることはなかった。こういうところも、小社での私の行動規範になっている。

こんな私に父は目をかけ、西郷南洲の人間力の話をするようになってきたのだった。小さい頃から得意だった私の絵にも父は関心をもっていた。私も、どんな人に対しても優しく強い父を誇りに思っていた。

私が小学校5年生の頃のこと。父は民生委員をしていて、眼の悪い三浦さんという人に生活保護の手続きをしてあげ、大変感謝されていた。ある日父と歩いていて三浦さんと会った。「和田さんにはいつもお世話になっていますが、私は何のお返しもできません。今度の選挙で和田さんが推薦した人に投票します。こんなことしかできませんので教えてください」と言い、三浦さんは涙でいっぱいになっていた。

「三浦さん、私はあなたが決めた人に投票してくださればそれで満足です。選挙とはそういうものですよ」と父。三浦さんは声をあげて泣き、父はその肩を優しく抱いて励ましていた。その5年生の時に脳裏に刻まれた光景は、今でも忘れられない。私は父の存在をますます誇りに思ったのだった。

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