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第9回山形国際ドキュメンタリー映画祭特集(4)

2006/01/04
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ピーター・メトラー監督との上映後のトーク。メトラー監督の映画は世界の各地で自我を越えようとして宗教やドラッグなどを嗜好する人々を見つめる映画。映像と音が時間をかけて構成されていた。

本点写真の解説は本文を参照
「私映画からみえるもの スイスと日本の一人称ドキュメンタリー」
監督・ディレクターインタビュー 第4回

スイス人映画祭ディレクター、ジャン・ペレ氏インタビュー 3(目次4、5、6)

ジャン・ペレ(Jean Perret):スイス・ニヨンで開催されている実験的で革新的なドキュメンタリー映画祭、ビジョン・デュ・レール(VISIONS DU REEL)映画祭のディレクター。山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)に何回も来場している。今回の特集はペレ氏とYIDFFとの交流を背景に実現した。


4 映画とは時間と空間の中で動く人間の生命の営みです。

−− この特集を会場でご一緒に拝見していて、ジャン・ペレさんの映画の受容が凄く知的であると同時に身体的なものだと感じました。ピーター・メトラーさんの映画の導入で、映画のリズムがゆったりしたときはそれに合わせて手を動かしたり、ダンスしているような感じに見えたんですね、映画と一緒に。そのような受容の仕方を意識されていますか。

ペレ:映画とは何かというと、モーションピクチャーです。モーション、動きですね。映画は動きのなかで身体を見せ、顔を見せるものです。空間のなかでの緊密な動きを時間のなかで見せる。空間と時間のなかで動いていく感覚を与えられる映画製作者が好きなんです。ですから、私の答えはとても簡単で、そうですと答えます。ピーター・メトラーは、音楽を演奏する人間のように心のなかで編集し、音楽家のようにリズムの知識を持っている。私は、どの映画からも少なくとも映画を作る作り手の心拍を感じたい思っています。心拍というのはリズムですね。命のある身体のリズムです。私にとってインディペンデントの創造的な映画は、テレビジョンのようなだらだらと連続した画と音の動き(フロー)やビデオクリップとは完全に違っていなければならない。というのは、そこに理由があるのです。ビデオクリップは人間の死と同じです。

前田さんの映画では、15秒はとても短いですが、俳句と同じように、時間と空間のなかで動く人間の生命の営みを感じさせます。

5 声と言葉は意味を持ち、身体、ソウル、心を持っています。

−− 今回上映された映画についてのペレさんのコメントで、映画の中のナレーションの声の質や意味について多く言及されていて、それをきいてナレーションや言葉の意味についてとても啓発されました。

そこでうかがいたいんですが、いまの時点で革新的な映画のなかに、純粋な視覚性以外のものを入れ込むことが大事であると思っていますか。

ペレ:ええ。映画は異なる要素の総合です。私はもちろん映像の言語を愛しています。映画的な映像と音の言語は興味深いものです。伝統的な言葉、物語、会話は、映画という全体のなかの一部を成すものです。しかし、私にとって声や映画のナレーションは、やはり身体に関わっている必要があります。ここでも身体なんです。

だらだらと台詞が多く、時間と空間のなかに生きる身体とつながっていない映画がたくさんあります。そうした映画は、多くの言葉を使っていても、それらの言葉は身体、ソウル、心と深い関係を持っていない。そこが重要な問題です。私は語りのある映画を共有できることを楽しみにしています。言葉、音を聴かせ、身体を見せる映画ですね。声と言葉は意味を持ち、身体、ソウル、心を持っています。

6 文化は乱されるのを待っています。だから良い映画祭とは風のようなものです。

−− それは、革新的な映画祭が大衆と離れていかずに存続するための一つの戦略でもありますか。

ペレ 山形、そしてニヨンの映画祭には2つの種類の責任があると思います。1つめはいうまでもなく観客の興味をひきつけることです。私たちが見て選んだ映画を観客に見てもらい、私たちの映画への情熱を共有する。観客へのアクセスを持つことが重要です。

2番めは、映画祭は、前に進むということに責任を負う必要があります。次の段階に進む責任があり、映画祭は一種の前衛でなければならないのです。これはとても大事なことです。私たちは観客を驚かせ、革新的でなければならず、新しいドアを開くリスクを負わなければなりません。観客にショックを与え、彼らを乱す必要があるのです。文化というものは乱されるのを待っていると私は考えています。それがなければ面白くない、興味がわきません。

観客との関係を作りながら、彼らを驚かせることが大切なのです。それが社会的、政治的、文化的な映画祭の役割なのです。それがなければ街でビデオテープを売るのと同じで、たんなる商売になってしまいます。

良い映画祭とはフレッシュな風のようなものなのです。例えば山形でかつてドキュメンタリー映画を作っていた小川紳介監督は素晴らしい監督です。彼は私の心のなかで永遠に風を起こしています。彼は映画の世界で前進し、良いやり方で一種の混乱をもたらしたのです。それは一種の革命です。

(2005年10月13日山形市にて。通訳:王愛美 取材・構成:山之内優子)

(次回はジャン・ペレ氏インタビュー第4パートを掲載。)

本レポート写真(右)キャプション:スイスと日本の女性監督たちは、自分の家族や友人についてのセルフ・ドキュメンタリーを上映。家族や友人を撮影する態度には、映像を作る姿勢の差が監督によってとても異なり興味深かった。ペレ氏は日本の鬼子母神伝説を題材に使用している日本の瀬戸口未来監督の作品のつぶやくようなナレーションの効果を指摘。しかし映画にはよくわからないことがあります、と率直に表明していた。

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