第9回山形国際ドキュメンタリー映画祭特集(3)

2006年01月03日

鈴木志郎康監督との映画上映後のトーク。

前田真二郎監督との映画上映後のトーク。前田氏の作品は月齢にあわせて一年間、短い映像を積み重ねる実験的な作品で、ペレ氏は、俳句の形式を思わせると指摘した。
「私映画からみえるもの スイスと日本の一人称ドキュメンタリー」
監督・ディレクターインタビュー 第3回
スイス人映画祭ディレクター、ジャン・ペレ氏インタビュー 2(目次2、3)

ジャン・ペレ(Jean Perret):スイス・ニヨンで開催されている実験的で革新的なドキュメンタリー映画祭、ビジョン・デュ・レール(VISIONS DU REEL)映画祭のディレクター。山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)に何回も来日している。今回は来春ニヨンでも上映されるYIDFFの特集「私映画から見えるもの」の担当ディレクターとして来日。

2 リアルなものを見せるドキュメンタリーは、互いを理解をするために最善の道

−−日本では一人称ドキュメンタリーとかセルフあるいはパーソナル・ドキュメンタリーという言葉を使っていますが、それをいまの時点で特集したのはなぜですか。

ペレ:日本人のスピリットの部分、そしてどういう人格、パーソナリティを持っているかを理解できるようなプログラムをやりたいと、山形の自分たちの仲間と一緒に考えました。それにはどういうふうにしようか考えたんです。そこでこういうタイプの映画祭、こういう内容のものが、日本ではいま何を考えているかを理解するのに最善なのではないかという話が出てきたんです。

−−それは日本との関わりで出たことで、ほかの国とこのテーマでコラボレーションを企画することは考えてられたでしょうか。

ペレ:たしかに話し合いの中で出てきたんですが、重要なことは、この映画祭で上映されたプログラムが、日本だけでなくニヨンでも上映されるということなのです。ですから向こうでも同様な形のプログラムができるということですね。ほかの国ではやらないのかというご質問がありましたが、それに対しては、自分にとってこうしたドキュメンタリーは、凄くリアルなものを見せていこうという試みですから、お互いを理解するために最善の道だと思うので、ぜひほかのところでもできればいいと思っています。

そういうなかでお互いの違いが如実に出てくるので、お互いの共通点を探すよりも、お互いの相違点が出てくることが面白いと思っています。

−−文化的な差や相違点を最初から意図してプログラムを組まれたんですか。それともそうした差を考えずに個々の作品として見ていらっしゃるのでしょうか。

ペレ:特集のプログラムを組み立てていくなかで、一つひとつの映画に集中し、その映画のなかでどう物語を語ろうとしているのか、その人物がどうやって観客と自分が持っているものを、たとえば鈴木監督の場合はこういう形でシェアしようとしている、そういう努力、作家のアプローチ、一つひとつの作品を見ていくということが大事なことであるわけです。

ただし、同時に作品から観客に何か光を与えられるような、自分たちとあなたがたが違う部分、差異の部分がその作品から見えてくる。それによって、スイスはこうだ、日本はこうだということが醸し出されてくるような作品、その辺も作品を通して見えてくる。その2つの部分がたしかにあると思います。ただ、やはり一番大事なのは一つひとつの作品を見ていくこと。そこが基準になっていることはたしかです。

3 日本の監督のドキュメンタリーに日本の伝統とのつながりを見る

−−鈴木志郎康監督の映画の中で、花をアップで撮影されていることについて、日本は狭い空間の中でものを見る伝統があるから花をアップにするのではないかという話をされたことに対して、鈴木さんはそれはちがうという拒否の反応をされました。一方、若い監督の前田真二郎さんは、ご自身の映画を俳句のような伝統的な文脈に関連付けられることを拒否されなかったと思います。それについてどう思われますか。

ペレ:鈴木監督がおっしゃったことをそのまま信じるかどうかはちょっと疑わしいと感じているところがあるんです(微笑)。それといいますのも今回、日本で作品を見ることによって、花、木、庭であれなんであれ、自然が多く描かれていることに気が付きました。そこから私が感じ取ることができるのは、日本は面積がそれほど大きくなく、小さいところに多くの人が住んでいる国ですから、凄く大きな都市の中では人口が集中しています。そのような都市で、ぎゅうぎゅう詰めで生活する人の心の中には、どこか自然とつながっていたいという思いがあるのではないか。そういうことを感じました。

たとえばこの写真を見ていただくと(注:鈴木監督の映画の一場面で氏の自宅室内の写真。)小さい場所にいろいろなものがあって、小さい庭まである。これが日本のメタファーのように感じるんです。
さきほども言ったように、この写真からもわかりますが、この小さな場所に庭を作ることによって、まるでもう一つの世界が広がっていくような感じが鈴木監督の作品から感じられるし、前田さんの俳句の話ですけれども、俳句というのは、みなさんの方がよく知っている通り、とても少ない言葉ですべてを表現しようという試みだと理解していますが、もちろんすべてをそこで表現する必要はなく、それを示唆すればいいわけです。彼の15秒の世界のなかで彼が思っていること、感じていることをこうだよというふうに提案する。満月の夜に365日15秒撮ることで、まさに俳句のように、自分のすべてが伝わらないまでも、それを暗示する形になっている。とても日本的な試みだと思います。

−−多分いまの点、日本的であるかどうかについて二人の作家の方はかなり違うことをペレさんに投げかけたい部分があると思うんです。この点はヨーロッパと日本で互いの作品の見方について議論するときの、とてもいい題材だと思いました。

ペレ:ということは、監督さんだけでなく、あなたも私がいま言ったことは違うと思っていらっしゃるのですか。

−−ペレさんがおっしゃったことに同意しますが、例えば日本というと歌舞伎だ能だ俳句だと、昔ならフジヤマだという、そういったステロタイプの見方があって、特に鈴木監督はそういったステロタイプの文化的な伝統に対して、個人の表現を非常に重視してきたと思います。個人の表現に映像の革新性を見ているわけです。それが日本の伝統についての言葉で評価されてしまうことに反対されたように思いました。
前田監督の映画は、前田さんの個人的な生活を伝えるというよりは、ああいう仕組みを作って映画の画面から啓発されるものの可能性を広げている。自分を生活を伝えるというより、むしろ主観を離れるという、その契機に製作を使っているのではないでしょうか。

ペレ:興味深い発見だと思います。(注:前田監督の映画は毎秒15秒の映像を365日間継続しそれを連続した作品である。)その15秒というコンセプト自体がインパクトがあるものだと思います。15秒のなかにどういう形であれそこから何かを受けるしかないわけで、その15秒に取り込まれる、キャプチャーされるというコンセプト自体に非常にインパクトがあると思うんです。毎日365日その15秒で表現するわけですから。

(2005年10月13日山形市にて。取材・構成:山之内優子 )

(次回はジャン・ペレ氏インタビュー第3パートを掲載。)