クラシック音楽にも広がるドルビーアトモス。Apple Musicのキーマンに聞く音楽配信のいまと未来
クオリティへのこだわりがApple Musicの強み
ビートルズをこよなく愛したジョブズの遺伝子を受け継ぐ音楽ファンが、アップルの幹部に必ずいるはずだ。そう想像していた通りの人物が目の前に現れた。22年間をアップルとともに過ごしてきたオリバー・シュッサー氏のことである。iPodが世に出た3年後の2004年に入社し、iTunes Music Storeの市場導入にも携わったという。
「12歳で初めて自分のレコードを買い、将来はこの世界で仕事をしたいと決めました」と語るほどの根っからの音楽好きで、2015年に登場したApple Musicを皮切りに、Apple TV+、Apple Podcasts、Apple Sportsのグローバル展開を担ってきた。
現在はそこにBeatsを加えた同社のエンタテインメントビジネスを統括するバイスプレジデントの立場にある。来日時に実現したインタビューでApple Music Classicalを含むApple Musicのいまと今後の展望を語ってもらった。
「クオリティとアーティスト両方へのこだわりがApple Musicの強みです。クオリティについては音質はもちろんのこと、キュレーション、豊富な機能、デザインなどが含まれます。そして、アーティストのために意志決定を行い、彼らにとってベストなサービスを構築することを最も重要と考えています」
キュレーションは膨大な音源を的確に整理・吟味して聴き手に届けること。ストリーミングサービスの価値を大きく左右する重要な概念だ。Apple Musicは音楽に精通した人間のキュレーターが選ぶプロセスを重視しており、ありきたりなレコメンドにならないように中身にこだわっているという。
アーティストの立場を重視することはアップルが音楽ビジネスに関わるようになった最初期から一貫して掲げてきたキーコンセプトのひとつだ。無料サービスと距離を置いて適切な対価を支払うことはもちろん、アーティストとチームを組んで積極的に音楽制作に取り組む姿勢も継続している。
現在はパリ、ベルリン、東京、ニューヨーク、ロサンゼルス、ナッシュビルなど複数の拠点に自前のスタジオを作り、ラジオ番組やライヴを発信しているという。
Apple Musicのクオリティへのこだわりを象徴する新しい取り組みの一つが空間オーディオ(ドルビーアトモス)の導入だ。
「モノラルがステレオになってから70年以上の間、進化が止まっていました。空間オーディオはそこに革命をもたらし、オーディオの新しい基準を作り出すプロジェクトとして5年前にスタートしました。最も重視したのはどんな環境で誰が聴いても音の違いを聴き取れることです。
ロスレスやハイレゾは、目を閉じてデータ形式などの情報を遮断して聴くと、違いがわからないこともありますし、大型のシステムで聴かないと違いに気付かないこともあります。一方、空間オーディオはAirPodsのようなイヤホンで聴いてもすぐに違いがわかります」
クラシックファン向けに専用のデータベースを構築
さらに2023年春にはクラシック音楽だけのために専用のデータベースを構築してApple Music Classicalを立ち上げた。日本でも2024年1月にサービスが始まり、クラシックファンの大きな注目を集めたことは記憶に新しい。筆者も毎日のように使っているが、同サービスを選ぶ最大の理由は検索精度の高さにある。


「ポピュラー音楽だとアーティスト名と曲名だけで正確に候補を絞ることができますが、クラシックではそれが思い通りにいきません。たとえば『ベートーヴェンの5番』とキーワードを入れたら1万件もの候補が出てきて、どうしていいのかわからなくなってしまう(笑)
クラシックファンは作曲家、オーケストラ、作曲年代、楽器などさまざまな条件で検索するので、複数のメタデータを埋め込んだ専用のデータベースを構築することが不可欠なのです。これまでクラシックファンが抱いてきた不満を解消するためには、そのデータベースを世界中で日々更新し続け、ファンの期待に応えていくことも必要です。
作曲家のプロフィール画像や各国語でのリスニングガイドも用意しているので、若い世代の音楽ファンにも強くお薦めします」
NHK交響楽団のドルビーアトモス音源も配信開始
オリバー・シュッサー氏はクラシックファンに向けて優れたコンテンツを新たに提供することにも熱意を示す。2026年10月に創立100周年を迎えるNHK交響楽団(N響)とのコラボレーションで新しい空間オーディオとロスレスの音源を提供することもその一環だ。
「NHK交響楽団の膨大なライブラリには日本国内だけでなく海外で収録した音源も含まれ、演奏と音響どちらも非常に優れたクオリティを実現しています。その功績に敬意を表する意味も込めて、これから複数の音源をロスレスや空間オーディオで提供できるように準備を進めています。世界中のリスナーがN響の演奏をライブラリに加えてもらえるようにしたいですね」
アップルがクラシックの演奏団体や劇場とコラボレーションを進めるのはN響が初めてではない。すでにニューヨークのカーネギーホール、ロンドン交響楽団、ベルリン交響楽団とも共同作業を進め、ミラノ・スカラ座、バイエルン歌劇場、シドニーのオペラハウスともプロジェクトが進行中だという。
2月18日に配信がスタートしたラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を中心とするN響の第一弾のプログラムは、指揮にファビオ・ルイージ、ピアノ独奏にネルソン・ゲルナーを迎えて2024年12月にサントリーホールで行われた定期公演のライヴ収録音源で、ムソルグスキー「展覧会の絵」(ラヴェル編)とスメタナ「売られた花嫁」序曲とともに一公演まるごとロスレスまたは空間オーディオで楽しむことができる。
9.1.4chの再生環境を整えたアップル社内のリスニングルームでラフマニノフの空間オーディオ音源を試聴したところ、独奏ピアノとオーケストラのやり取りが立体的に眼の前で展開し、ホールを満たす余韻の広がりが広大で密度も高い。
比較のために再生した同作品の別アーティストによるステレオ音源に比べてピアノの低音や低弦の輪郭が鮮明で、細部まで音色を正確に把握できるのは、複数のチャンネルを駆使することで振幅に余裕が生まれることも背景にありそうだ。臨場感はもちろんだが、作品の理解に直結する重要な演奏情報も空間オーディオで聴いた方が伝わりやすいという重要な長所があるのだ。
「空間オーディオの音源を提供するためにはリミックスとリマスターの作業が必要ですが、エンジニアの多くはステレオから空間オーディオへの進化を好意的に受け止めています。ステレオに比べて楽器の位置を自由に決めることができ、大きなキャンバスを手に入れることができるのを歓迎する声をよく聞きます。ポピュラーだけでなくクラシックでも同じです」
今回のN響の音源はアップルが2018年に買収したPlatoonレーベルからのリリースだが、Apple Music Classicalを始める際に取得したBIS Recordsとの協業も視野に入れているという。
「BISはスウェーデンの老舗レーベルで、英グラモフォン誌のレーベル・オブ・ジ・イヤーを2023年に受賞しました。クラシックのインディペンデント系レーベルのなかではカタログの充実ぶりと演奏、録音の質の高さが抜きん出ていていることが、私たちがBISを選んだ最大の理由です」
BISはバッハ・コレギウム・ジャパンをはじめとして日本の演奏団体やアーティストの録音を国内外で数多く手がけており、制作・録音チームは日本の環境も熟知している。N響とのコラボレーションを進めるなか、BISのチームによる新録音の可能性もあるのかと尋ねたところ、「その可能性は十分ある」との答えがシュッサー氏から返ってきた。
BISはサラウンド収録音源のリリースに積極的なレーベルの代表格なので、プロジェクトが実現すれば、クラシックの空間オーディオの普及に重要な役割を演じる可能性がある。N響とのコラボレーションを端緒にクラシックでも空間オーディオのカタログが充実することを期待したい。
日本にはApple Music Classicalのユーザーが多い
日本でApple Music Classicalがどの程度利用されているのか、最後に尋ねたところ、少し意外な答えが返ってきた。
「日本はApple Music Classicalの利用が時間ベースで他の国に比べて3倍長いんです。それからApple MusicとApple Music Classicalは再生履歴がリンクしているので、こんなこともわかりました。クラシックファンには、クラシック音楽しか聴かない人とあらゆるジャンルの音楽を聴く人がいます。
他のジャンルも聴くクラシックファンは、ポップスのファンよりも多くのジャンルの音楽を聴く傾向があります。他のストリーミングプラットフォームはクラシック専用のサービスを提供することに興味がないようですが、私たちは違います。クラシック音楽を芸術として尊敬することを基盤に、クラシック音楽のためのプラットフォームを持つことが重要だと考えています」

