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「ミンヨン 倍音の法則」スタッフインタビュー − 宇宙に身を投げ出すような映画製作の現場

公開日 2014/11/25 10:46 山之内優子
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吉田カメラマンが語る佐々木監督の初めてのテレビドラマ

吉田 佐々木さんは95年の「8月の叫び」を最後にNHKを退職されたんですね。大学の先生として教壇に立たれたのです。学校からは学生を育てることに力を注いでくださいと言われたようです。僕ら、家が近いので音響の岩崎(進)さんと3人で昼飯食いながら「佐々木さん、新作を早く作ってよ」と、そういう風に言っていたんです。

ー 吉田さんご自身はNHKでどのような番組の撮影を担当されていたのですか?

吉田 僕はもともとドキュメンタリーなんです。NHKというところはおもしろいところで、助手という制度はなくて、入ったらみんな一本立ちなんです。最初、松山に赴任したんですが、ニュースを1人で撮りに行かなければいけなくて、それで撮影の仕方を勉強しました。何年かたって佐々木さんと仕事をすることになったんです。

佐々木さんは元々はNHKでラジオドラマを手がけておられたんです。それが、NHKの吉田直哉さん、吉田さんはテレビジョンの草創期に一番活躍した有名な人ですが、その吉田さんが「明治百年」(「海外取材・明治百年」1968年放映)というドキュメンタリー番組を作るときに、アメリカのNASAがやっていた、人を集めてプロジェクトを組むというプロジェクトシステムを初めて取り入れて、テレビを全然やったことの佐々木さんにも声をかけられたんです。それが佐々木さんがテレビに出会った最初だと思います。

佐々木さんの初めてのテレビドラマは、「マザー」(1970年)です。その時、今までのテレビドラマとはまったくちがうものを作りたいと思われたのですね。プロの俳優ではない一般の人が登場しますし、カメラマンも「若い広場」を担当していた入社2、3年目の若いカメラマンの映像を見て、この人とやりたいと希望したらしいです。結局、萩野さんという番組のディレクターが、葛城哲郎くんという僕と同期のカメラマンを紹介して、彼が撮影を担当することになりました。

佐々木さんはラジオでも現場に行って収録してくるという形が多かったので、テレビジョンの世界でも、今までにない映像であり、今までにない作り方でやれないかと、若いスタッフを集めてやったんですね。

葛城くんが何本かやった後に大阪に転勤になり、それで東京に誰かいないかということで、葛城君が僕を紹介してくれたんです。僕はNHKに入って15年目ぐらいでした。佐々木さんと最初にやったのは「四季・ユートピアノ」です。

はらだ 80年ですね。当時はビデオや予約録画はなくて、その場で見ないとならなかった。今ふりかえってみると作品が放映された年とそれを見た人の世代の対応が面白い。僕は今、60歳なんだけれど、60歳から70歳の人というのは70年代に佐々木作品に影響を受けている。是枝裕和監督や河瀬直美監督など、今50歳前後の人たちは中高生の時に「四季・ユートピアノ」を見て、ショックを受け今に至っている。面白いなあと思って。その後の世代は、佐々木作品を再放送で見てショックを受けた人たちですね。

佐々木作品は一本一本が勝負だった

吉田 「夢の島少女」(1974年)から「四季・ユートピアノ」までは5年ぐらいあるんです。作れば海外から評価され、ほとんど賞をとっているのに、佐々木さんの提案がNHKの中で、なかなか通らなかった。だから佐々木さんにとっては一本一本が勝負だったんです。それが認められないと次がないですから。佐々木さんに紹介され、これから製作が始まるという打ち合わせの時に、佐々木さんは「夢じゃないだろうか、夢なら覚めないでほしい」とおっしゃったんですよ。

はらだ その頃、佐々木さんは途方も無い量のシナリオを書いたとおっしゃっていましたね。

吉田 「夢の島少女」の後、何千枚も書いたそうです。すごいですよね。佐々木さんは昔はスリムな人でした。いつも目の下にクマが出ているので、ある時「佐々木さんは寝てないのですか?」と聞くと「寝ちゃいられないんですよ。次々にアイデアが湧いてきて寝られない」とおっしゃっていました。僕らが言うとキザなこと言ってとなるのですが、天才佐々木さんが言うと納得してしまいますよね。その間も給料分はNHKで働かなければならないので、和田勉さんの助監督をやったりされています。普通、NHKの演出家はレギュラー番組をやっていて、たまに提案が通ったら特集をやるという形なんですが、佐々木さんぐらいじゃないんですか、大河ドラマや朝ドラの演出をしたことがないのは。しかし、自分で書いて自分で演出するという佐々木さんのやり方を認めてくれた人もNHKにいたことは幸いでしたね。

はらだ 大変なご苦労をされたというのは、何回も何回も聞きましたよね。ひとつの提案を通すために本当に大変だったという。

吉田 佐々木さんの番組を見たからNHKに入ってきたという人もいたほど、影響力はあったんです。

はらだ ひところは面接で、かなりの人が佐々木昭一郎みたいな作品を撮れるようになりたいという夢をお話しになったらしいですね。

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