同一スタンパーで「黒盤」「透明盤」を聴き比べ。 井筒香奈江の“マニアックすぎる”新作2枚組シングル
市販を前提としない「冒険カッティング」が生んだ音
井筒香奈江の新作は、驚くべきことにシングル盤の2枚組、それも全く同一のスタンパーを用い、盤の材質を通常のブラックヴァイナルと最新開発のスーパークリアヴァイナルという2種類でプレスしたという、マニアックにもほどがある構成となっている。
このシングル盤が成立する過程で、私もほんのちょっとだけ関わりを持たせてもらっている。去る2025年の6月21 - 22日に開催された「OTOTEN(音展)」にて、たまたまテクニクスのブース前を通りがかったと思ったら、井筒さんが手を振ってくれた。何でも、30分後にテクニクスの超弩級システムで、彼女の新作LP「窓の向こうに & Another Answer」をかけるイベントを行うというではないか。幸いまだ席は残っていたので早速陣取り、じっくりと聴かせてもらうこととした。
もちろんそのLPは素晴らしい出来上がりで、大いに堪能させてもらったのだが、そこでレコードのプレスを担当したメモリーテックが「テスト用」に切ったシングル盤(非売品)などというものが登場した。その音を聴いて、私は腰を抜かさんばかりにビックリしてしまった。
線速度の差とエンジニアの挑戦が生む、圧倒的なダイナミズム
カッティングを担当されたエンジニアは、LPと同じくミキサーズ・ラボの北村勝敏氏で、北村氏によると「テストプレスというから、市販する盤ではちょっと考えられないくらい冒険した」カッティングだという。
また、実のところ30cm 33 1/3回転のLPと17cm 45回転のシングルでは、最外周の線速度は1.3倍ほどLPの方が速い。本来はそれだけLPの方が高音質のはずなのだが、その一方でLPとシングル盤の最内周は、1周の長さが同じ部分まで切られていたとすると、LPの方が3/4程度まで遅くなる計算だ。
これだけ大きな線速度の差が生じてしまうにもかかわらず、「LPは片面当たり1曲目と最終曲でそれほど大きな音質差をつけられないから、あまり冒険ができないんですよ。その点、1曲で完結するシングルは思い切ったことができます」と北村氏。なるほど、そういう条件がある上に、市販を考えない「冒険カッティング」だったから、こんな恐ろしい音が刻まれているのか、と大いに納得がいった。
そのような次第ですっかりシングル盤に魂を持っていかれてしまった私は、LPのお披露目イベントだったというのに、井筒さんにも北村氏にも「いや、このシングルはすごいですね。本当に売らないんですか?」と質問攻めにしてしまった。後日のイベントで、「炭山先生はLPのことを全然話して下さらなくて、シングル盤のことばっかりおっしゃっていました」と言われてしまい、あれそうだったっけと頭を掻く仕儀になったくらいである。
イベント会場でのブラインドテストで好みが二分
そんな私の大騒ぎがどれほどの役に立ったのかは知らないが、三か月後の10月に開催された東京インターナショナルオーディオショウの最終日、19日にトライオードのブースでシングル盤のお披露目を行うという連絡を井筒さん自身からもらった。何が何でも駆け付けねばと、17日に取材する予定だったのを急遽お披露目の19日に振り替え、会場へ駆けつけた。
椅子席は早々に予約で埋まり、お立ち見も出てぎっしり満杯のブースで紹介されたのは、何と先に説明した通りの、仕様が違う2枚の盤だった。どちらをかけているか分からないようにしながら再生したら、まるで音質というか、表現の方向が違う。「どちらが良かったですか?」と井筒さんが問いかけると、面白いことに挙手の数は完全に二分された。
その時、一言コメントを求められて「こんなに面白い音の違いがあるんだから、もし可能なら2枚組で出してほしい」と語ったら、何と既にその方向で話が進んでいて、たまげた。私もいい加減突っ込んだマニアだと自認しているのだが、彼女の方が我々よりもずっとマニアックなのかもしれない。その際に「11月22 - 23日のハイエンドオーディオ&アクセサリーショウ(HAAショウ)で先行販売します」とインフォメーションがなされた。
再生システムの傾向で「好みの盤」が入れ替わる面白さ
これは何を措いてもHAAショウ初日22日に会場へ駆け込んで入手せねばならぬと決め、実際に初日の早々から会場へ赴いて、首尾良くゲットすることができた。小原由夫さんと井筒さんのイベントもしっかりと席を確保し、音を聴いてきたが、面白いことに先のTIASで聴いた時と、どっちの盤を好むかが違ってしまった。
TIASのトライオード・ブースでは、伊ゴールドノートのプレーヤーPIANOSAとカートリッジDONATELLO GOLD、フォノイコライザーPH-10に、トライオードのプリアンプEVOLUTION PRE、JUNONEのパワーアンプ845SE、スペンドールのスピーカー200Tiという組み合わせで、どちらかというとどっしり分厚く安定したサウンドを奏でる方向性だった。
一方、HAAショウの音元出版ブースでは同社のレファレンス、即ちラックスマンのプレーヤーPD-191AにフェーズメーションのPP-2000カートリッジ、アキュフェーズのC-57フォノイコ、同C-3900S/P-7500セパレートアンプ、B&W802D4スピーカーという組み合わせで、現代ハイエンドの精華というべき超級解像度と音場の広がり、切れ味のよさを有するサウンドである。
この両者で、私の耳に2枚のシングル盤はどう聴こえたか。前者では、ともにブラックヴァイナルの音がそぐわしく聴こえた。驚異的な音像の厚みと実体感が、スーパークリアヴァイナルでは若干浅く、軽くなるかなという印象を持った次第だ。
それに対して後者では、俊敏な切れ味と広大な音場展開が、特にB面「竹田の子守唄」で、スーパークリアヴァイナルの表現と見事に響き合ったような気がした。いや、決してブラックヴァイナルも悪くはない。というか、より積極的に好まれる人もおいでかと思うし、A面「シング・シング・シング」では私もブラックヴァイナルの方を好ましく感じた。
それにしても、いずれ劣らぬ実力派の装置で聴いたにもかかわらず、ブラックとスーパークリアでどちらを好ましく感じるかが違ってしまったのが、実に興味深い。前者ではどちらかというと音像の生命感、実体感を濃厚に表現する傾向なので、ブラックヴァイナルの方向性と強く共鳴したのではないかと推測される一方、後者はとりわけサウンドステージの表現に長け、そこにある種幻想的とすらいえる「竹田の子守唄」が、スーパークリアヴァイナルの音質的な透明感、広大で濃厚な音場の提示に見事ハマった、という風に考えられるのだ。
自宅のレファレンス環境で聴く、それぞれの決定的な違い
そうなってくると、ますますわが家のリファレンスで聴くと、ブラックとスーパークリアのどちらが強く引き合ってくれるだろうと、俄然興味が湧いた。大音量に弱い愛犬をペットサロンへ預けたタイミングを見計らい、わがいつもの音量、即ち猛烈な大音量で聴いてみたら何たることか、「シング・シング・シング」「竹田の子守唄」とも、ブラックとスーパークリアの双方に聴きどころというか、試聴する "ツボ" のようなものが看取できるではないか。
具体的には、「シング・シング・シング」はブラックヴァイナルが歌手とバックプレイヤーの双方に濃厚な実体感と魂が宿り、炎の出るような演奏に思わず引き込まれるのに対して、スーパークリアヴァイナルでは切れ味鋭く端正な演奏を、少しばかり収録現場の室温が下がったかのようなクールな残響が包み込み、ブラックとはまるで別の風合いを持つ、しかし同じように演奏の中へ入りこめてしまうようなライブ感、臨場感を味わうことができる。
「竹田の子守唄」は、ブラックヴァイナルではどっしりと大地に根を生やしたような音像をどこまでも広大に広がる音場が支え、極上の聴き心地を醸し出すのに対し、スーパークリアヴァイナルではどこか超現実的ともいいたくなるほど音場が広がり、ひんやりとした空気感すら肌へ伝えてくる。井筒の歌も、この苦しい境遇を嘆く子守は既にこの世の者ではなく、冥界から我々に語りかけてきているような、そんな鬼気迫る静けさを聴く者に伝える。
結論めいたことを申し上げるのは、未だ早計のような気もするが、とりあえず1日じっくり聴いた感想を語るなら、「シング・シング・シング」はブラックとスーパークリアの双方に別々の持ち味があって両者捨て難く、「竹田の子守唄」も同様に双方良き持ち味があるが、スーパークリアの醸し出す超絶的な世界観に思わず引きずり込まれた、ということをお伝えせねばならない。
改めて、ブラックとスーパークリアはかくまでに表現の方向性が違う。同一のスタンパーで別々のヴァイナルを用いた2枚組、などという企画が再び実現するとはとても考えられず、私なぞ今ここで入手する機会を逃したら一生後悔することが明白だったから、慌てて購入したわけだが、それは世の井筒ファン、ひいては高音質アナログマニアにとっても同じことに違いない。幸い、音元出版のECではまだ少数だけ残っているという。このチャンスを生かすか逃すかは、あなた次第だ。
