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哲学者と宗教学者がオーディオを語り尽くす

黒崎政男×島田裕巳のオーディオ哲学宗教談義 Season 2「存在とはメンテナンスである」<第1回>

公開日 2018/10/10 06:00 季刊analog編集部
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バージョンアップとメンテナンス

島田裕巳氏(左)と黒崎政男氏(右)

島田 それをメンテナンスというと。

黒崎 メンテナンスという路線とバージョンアップという路線は同系列で考えられるのではないか。良くしていっているつもりで、例えばコンピューターの場合でも、バージョンアップしてやっと普通というか、やっと<今>を保っている、ということがある。

島田 メンテナンスって、バージョンアップというものを不可避的に含んでしまうと。そういうこと?メンテナンスというと、同じ状態を保つ感じがあるんだけれども。

黒崎 そこですね。時間の経過とともに、社会も世界も変わる。<私>も変わる。例えば、映像。かつては白黒、次にカラー、そしてハイビジョン、スーパー・ハイビジョン、さらに、4K、次に8K。映像も100年のうちに、これほど変化(進化)してきた。今日見ると、ハイビジョンの画質は粗く感じられるようになった。登場当時はきれいさに驚いたのに。つまり、常にバージョンアップしていることで、<今>をメインテインしている、という側面がある。

島田 それは昔からですか? それとも現代の、テクノロジーの時代になったから、そういうことが不可避的になったんでしょうか?

黒崎 まさにそこなんですけどね。19世紀に物理学の分野から出てきた「熱力学の第二法則」。<エントロピー(乱雑さ)は常に増大する>。この発想をイリヤ・プリゴジンらが20世紀後半に取り上げて、カオス(無秩序)は常に増大していくというのが世界のあり方なんだって。「散逸構造理論」っていう思想が20世紀末には大いに流行りました(※註)。かつては、「存在」は、放っておいても、そのままの状態を維持する、と我々は長いこと思ってきた。例えば、ニュートン的な古典的世界観では、「慣性の法則」というのがありますよね。止まっている物体に力を加えなければ、そのまま止まり続ける。動き続けている物体に、力を加えなければ、そのまま動き続ける、って考える世界観だった。

しかし本当は違うのではないか。プリゴジンがいうように、「存在」は、放っておけば劣化する、エントロピーが増大する、というのが、あらゆる面で言えるのかもしれない。

(※註:プリゴジンはこの理論で1977年にノーベル化学賞を受賞した。彼の著書『混沌からの秩序』(Order out of Chaos)は、ニュートン的世界観に対して、古典科学で例外として扱われる不可逆性や乱雑性にこそ、動的なこの世界を理解する鍵がある、と考える名著である。)

島田 神がこの世界を創造したのだとしたら、最初に完璧なものを創造していたはずだけれど、現実の人間の世界には絶えず変化ということが起こって、ときにはノアの大洪水のように、神が堕落した世界を一掃して、また一というか、途中からかもしれないけれど、歴史がはじまっていく。でも、人間が次第に技術を開発し、科学を発展させることで、力をつけるようになると、劣化する世界を人間の力で維持し、さらにはもっと良くしようとする。そういう傾向が現れたと。

黒崎 神の完全性に関しては、17世紀にもニュートン派とライプニッツの論争がありますよね。神は「一度作った時計を定期的に手直しする不完全な職人」なのかを巡って。ま、この神学的問題は置くとして、ともかく、機械類、例えば、アナログプレーヤーでも、蓄音機でも、カメラだって、放っておくとダメなんですよね。常にメンテナンスをすることによって、普通に使えるレベルになる。「メンテナス = maintenance」の語源はフランス語までは遡れるんですけれど、より古いラテン語までは遡れないんですね。若干新しい言葉なのか。「手入れ」という言葉が「メンテナンス」の起源だとすると……。

島田 言葉がなかったということは、それ以前にそういうものがない、と見做されますね。カメラの例はその通りで、昔のカメラと今のカメラと違うわけです。今のカメラはファームウェアのバージョンアップをしながら使う。

黒崎 今は、ファームのアップデートで、知らないうちに自動で根本的なところまで書き直されていくようになりました。20〜30年前は自分で発売元に電話してフロッピーディスクを送ってもらって、バージョンアップしていました。

島田 我が家のことをちょっとお話ししますと。ここに『JAZZ JAPAN』という雑誌があって、寺島靖国さんの「マイルーム・マイオーディオ」というコーナーがあります。ここに寺島さんが我が家を訪れて、オーディオを聞いたという記事があるんです。(雑誌をめくって)これです。

『JAZZ JAPAN』2018年4月号。島田裕巳氏の自宅が掲載されている

さて、私のうちは世田谷にあるんですけれども、私が所有しているわけではなくて、借家なんです。家というものはメンテナンスしなくてはだめじゃないですか。よく賃貸と持ち家とどちらが得かって議論されるけど、その時にメンテナンスのことは触れられない。私の家は1995年にできたので、いろんなところが壊れてくるわけ。そうすると、まず僕は不動産屋さんへ伝え、不動産屋さんは大家さんへ、大家さんから業者へ……という具合に、いろいろな人が関わる。エアコンもガスも全部新しく変わって、僕らは住み続けている。生活しやすいようにだんだん変わってきている。

黒崎 家というのもメンテナンスがあってはじめて普通に住めるんですよね。

島田 だから最近は壊れてくるのが楽しみなんです。ところが、オーディオになると自力更生しないといけないから、費用は自分で負担しなければならない。怖いのは、黒崎さんみたいにバージョンアップしないと気が済まない人が出てくるところ(笑)。

黒崎 そんなことないですよ。悠然としています(笑)。

島田 バージョンアップすると新しい世界が開けてくる。進化した機械を通して今までと違う状態になる。

黒崎 20歳くらいの時に聴いていた「大地の歌」が、あんなに沁みるとは驚きましたもの。機械のバージョンアップと共に編成の大きなものが豊かに意味合いを持って聴けるようになる。クラシック音楽という括りの中では、マーラーが最後くらいになりますかね。私にとってただただ<肥大化>した音楽だったものがついに、意味深いものとなった。

島田 確かにマーラーの音楽はクラシックの一番最後の時期に位置付けられると思います。その「最後」とされるものが、「バージョンアップ」によって新しいものとして聴こえてくる。マーラー自身も、自分の作った曲が再生装置で聴けたとしたなら、また面白いことになったかもしれません。

島田裕巳氏(手前)と黒崎政男氏(右)

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