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【対談】オーディオは本当に進歩したのか<第2回> 哲学者・黒崎政男氏と宗教学者・島田裕巳氏が語る

公開日 2017/12/14 15:53 季刊analog編集部
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メディアによって音楽が変わる

黒崎 56年ということで話すと……、まず、SPレコードとLPレコードの差についてです。SPレコードは1902年くらいから。録音技師のA・ガイズバーグがテノール歌手のカルーソを吹き込んだものが大ヒットして、「蓄音器は音楽に使えるんだ!」と、いろんな人がSPに吹き込み始めてブームになりました。次にLPは1950年くらいを境に出てくるのです。例えば、さっきのような小曲ならいいんですけど、ブルックナーもあったんですよ、SPで。8枚組ぐらいの。

黒崎政男氏

島田 交響曲?

黒崎 交響曲。もうぜーったい、聴き通せないですよ、SPでは。盛り上がりの途中でプツンと切れたりするので、もう責め苦以外の何物でもない。なので、長年の悲願なわけですよ、ロングプレイが。シンフォニーが入るようになった。ということでLPが音楽再生のメインになっていったんですよね。

島田 最長3分の蓄音器時代に、『サキソフォン・コロッサス』とかを録音しようと思ってもできなかった。

黒崎 だから、音楽自体が変わるわけです。チャーリー・パーカーの音楽というのは、3分の音楽。俳句みたいな短さです。それはメディアがSPレコードだったからです。バド・パウエルも3分のジャズなんだけど、途中から突然7分とかの長尺になっていくのは、音楽が変わったというより、メディアが変わったからなのです。

で、56年ですが、ちょっとマニアックかもしれませんが、シューマンのピアノ四重奏&五重奏をLPレコードでかけたいと思います。イェルク・デームスというピアニストとワルター・バリリ弦楽四重奏団が入れた、私にとっては超名演。これが56年、ウィーン・コンツェルトハウスで録音したものです。シューマンは、ピアノ五重奏曲が有名なんですけれど、私はピアノ四重奏曲の方が好きで、特にチェロが主役となる3楽章。チェロをやっていた大学生の頃に出会って、もう恍惚として涙を流しました。お聴きください。

〜デームス、ワルター・バリリ弦楽四重奏団『シューマン:ピアノ四重奏曲 第3楽章』試聴〜

デームス、ワルター・バリリ弦楽四重奏団『シューマン:ピアノ四重奏曲 第3楽章』LP

黒崎 私見ですが60年代の最初くらいまではヨーロッパの風土性がちゃんと録音に反映されているんですよ。ウィーン・フィルはウィーン・フィルらしく、例えば、パリのオーケストラだと60年中頃はフランスらしさがあるのですが、ユニバーサル世界標準化のなかで70年代以降、オケは上手いか下手かになってくる。団員も変わるし、弾き方も変わるし。幻想かもしれないけれど、「ああ、フランスっぽいね」とか、「やっぱりドイツだよね」ということが言えなくなって、面白くなくなっていった。この盤では、ウィーンを感じられますね。皆さんとご一緒にちょっとウィーンまで出かけることができたのでは、と思います。

島田 さっきマニアックって言ってたけど。

黒崎 シューマンというのはだいたいマニアックじゃないですかね。

一同 (笑)

黒崎 NHK-FMで「大作曲家の時間」というのを1970年代にやっていまして前田昭雄先生のシューマンの回が本当に素晴らしかったんです。シューマンはどういう音楽かって。歌曲の「詩人の恋」とか「リーダークライス」とか。それを聴いて凄い人なのだと思いました。ピアノ五重奏曲は皆聴くんです。派手だから。ピアノ四重奏曲は、よく地味だと書かれるんですけれど、この楽章がシューマンの中で本当に素晴らしい曲だと思っています。惚れているんです。

島田裕巳氏

島田 SPレコードに近い感じがしますね。録音風景はちょっと想像できないけれど、今とは違うんだろうな……というのと、なにより演奏者の演奏に対する気持ちがこもっているように感じる。今はそういう気持ちになれないんじゃないかな。1956年のジャズでもそうだと思うんですけど、戦争が終わってから10年。先進国はみんな、もちろん日本も、高度経済成長期に入っていくころですね。

黒崎 戦争でぐちゃぐちゃになったあと、やっと余裕が出てきた。それから余裕が出過ぎて、ユニバーサル(国際標準)になっていく。国という個性が失われて客観的な演奏になっていく感じです。SP時代は今のように他人の演奏を聴く機会が多くないし自分だけでやってるから、個性的なガラパゴス化された演奏が至るところにあったわけですよ。その見事さは時代が経るにしたがって、失われていくというか。世界どこでも一緒みたいになってしまう。地元性とか個性が残っているのは古い時代の録音。65年とか66年までは、「ベルリンだよね」「これパリ風だ」ということが言えるけれど、そのあとはもう、「世界!」とか「上手い人!」というような演奏になってしまう。

島田 「こういう演奏をする」という心持ちが今の人にはない。そういう気持ちになれといわれてもならない。

黒崎 テンポが揺れたりミスタッチがあったりしているにも関わらず、心が反応するんですよ。今のは、いいね、上手いねと思っても、心には沁みてこない。

オーディオというのは、50年代なら50年代、60年代なら60年代の最高のものが保存されていて、それを聴く。ライブは常に現在の人しか聴けないわけだから。保存された音楽というのは、ベストのものがそのまま冷凍保存されているんですよね。

電子レンジじゃないけど、どう解凍するか、再生するかによって鮮度が決まる。

島田 かつては録音すること自体、演奏家が楽しんでいた。というか演奏家の喜びだった。

黒崎 「俺の演奏が残るのか!」というような、ね(笑)。

島田 技術がその時代に進歩して、装置も変わって、録音した音が変わって聴こえてくるわけじゃないですか。「こういう音で自分の演奏が残るんだ」、っていう感覚があったでしょうね。

黒崎 その、端境期こそすごくて!(興奮) 

一同 (笑)

黒崎 端境期を超えると、今度は多くの人に聴かれるわけだから、先ほどの演奏みたいにちょっとテンポがずれちゃったり走ったり、こういうのは直しちゃえと、何回か録ってつなぎ合わせたりする。それから、他人の演奏を聴く機会も増えるので、ああしなきゃ、こうした方が良い……と、ガラパゴス演奏時代が終わるわけですよね。そうすると、そこでしか発生しなかった個性的なものは消滅していくわけですよ。それが60年代以降だったんですね。

島田 今のシューマンを生で聴こうとしたときに、聴ける、演奏できる場所がないんじゃないですか? 例えば、この奏者が蘇ってきたとして、どこでこれを演奏するのかという。サントリーホールで演奏しても今聞いたような感じにはならないでしょ? じゃあ、どこでやるのか、やれるのか!

そういう場所がないということは、こういう音楽、つまり今しがた聞いたような、演奏する側と聴く側の気持ちの距離が近いようなものをいまの我々がライブで聴くことは非常に難しいというか。ほとんど不可能。

黒崎 それは何が変わったのか、劣化なのか変化なのか……。

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