巻頭言

あらためてきわめる

和田光征
WADA KOHSEI

私はものの見方、考え方のベースをいつも人間、自然、宇宙に置いています。と申しましても、真理を分かっているわけではありません。私なりの理解の仕方で、得心しています。

私は九州・大分県の山奥、過疎そのものの地で生まれ、育って、18歳で上京したのですが、未だに春夏秋冬の自然の営みを忘れることができません。春の芽吹き、花の頃のやわらかなぬくもり。

山村暮鳥という詩人の詩に「いちめんのなのはな」があります。「いちめんのなのはな」を七行続けて八行目に「そらにはあげひばり」とあって、また「いちめんのなのはな」がずっと続きます。故郷では昔裏作として菜種や麦をつくっていましたから、どこまでもひろがる麦、秋のさまや菜の花畑はまさに詩のとおりでした。

菜の花畑は夜の暗闇でも明るく、幻想的でした。夏のいろいろな緑、そして山の緑の底から見上げると入道雲。秋の色の変化は絶妙でした。木々の色づく葉の一枚一枚に思いを寄せたものです。冬は静謐なる川の群青が今でも変わらず心を落ち着かせます。星々は空に溢れ、降ってきそうです。まさに自然があって人間がある。そのことが本質的なところで理解でき、脳裏にしみこんで、私の思考の根本を占めています。

人間。中国でどうして人という字を考え、人間という熟語を創ったのだろうか。そのあたりを調べてみました。人と人の間と書いて人間といいます。つまり複数ではじめて人間なのです。人という字も複数を表しています。ひとりでは人間でなくて、ふたりで人間です。その人間が三人になれば社会です。社会とはルールが必要です。そのことを成立させるのは、その根本に愛が存在するからです。

宇宙。よく分かりません。しかし、太陽の光や月の引力などが生物を育み、いつくしんでいるわけです。宇宙でも星が生まれ、終りを迎えます。最後を迎えて無になるけれども次々と星は誕生している。無は無ではなく生のはじまりなのだと思います。そこで私は光年という単位に、そうだと唸りました。1光年は1秒間に地球を七回り半もする光が1年かかって到達する時間の単位です。今でも億年の彼方から地球に届く星の光があります。

そこで人間のいのちを考えてみます。寿命は時代時代で変わりますが、仮に将来百歳とします。100年という時間を光年の世界から見たら全く無です。今2017年を迎えましたが、2017年という時間、それとて無でしょう。しかし人間もすべての生物も、種によって時間を連続させて存在し続けていきます。

人間があって個がある。個から人間を見るのではなく、人間から個を考える。それが大切です。何よりも「人間好き」が、人間社会における成功の原点です。まさに「人間好きは商売上手」です。

2000年でも3000年でもこれらのことは不変であり、私はあらためてこれらのことを再確認し、あらたな時代へ力強く出帆していこうと思っております。

ところでトランプ大統領の登場で風景が様変り。気になります。

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