巻頭言

人間百年スポットライト

和田光征
WADA KOHSEI

この頃、改めて「明日の今日、昨日の今日」を想起する。これは30年以上も前に私が創ったもので、いつの時代になっても通用する字句である。「明日の今日」とは何か。まさに明日のために今日どう生きているか、如何なる戦略のもとに手を打っているかということである。今日という日は“過ぎた日に明日を考え打った業の結果”なのであり、今日が突然あるのではない。いうなれば因果応報である。

「明日の今日」という考え方、ものの見方は、いくら頭で分かっていたとしてもだめである。頭で分かるだけでは何も分かっていないことに等しく、そこからは明日をたぐり寄せることなどできない。結局は過去からの平行移動を続けるしかない。

「明日の今日」の考え方、見方の原点には人間そのものがある。人間は太陽、地球、生物等諸々に抱かれて存在しているのである。そして、生と死がある。万物に生と死があり、生とは存在するということである。そして死すなわち無とははじまりでもある。

時間で考えると存在と無が理解できる。光年の世界から、人間の生から死までの時間を見るとどうだろうか。それは何もない世界である。しかし、種によって親から子という時間の連鎖が人間を存在させるのである。

人間が存在する時間は百年である。百年という時間の中で誕生があり死がある。百年という時間に、スポットライトが当たっているようなものである。その百年の中に子供、大人、老人がいて世代を構成し、時間を連続させ、積極的に生命を燃やし乍ら存在していくのである。

「明日の今日」という思考法は、以上のことを身体で認識した上で、「遠くから今日を見る」ことなのである。遠くから今日を見る、明日から今日を見る、ということは、遠くが見えない限り、明日が見えない限り不可能である。遠くを見る、明日を見る、そのために人間の存在を厳しく認識し、理解しなければならない。

人間が存在しない限り、何も始まらないし、起こらない。つまり技術も商品も、どんなものであれまず人間がいてこそ発生することなのである。そんなこと当たり前じゃないかと思いがちだが、流々述べてきた“人間”の認識がない限り、当たり前などとはいえないのである。

私が「明日の今日、昨日の今日」というのは、今業界、企業等々が厳しい状況にあるとすれば、それは往々にして昨日の連続、いうなれば平行移動の結果であり、数年前に今日を予測して手を打っていなかっただけだということである。繁栄している場合は、必ず過去に打った手が効果として現出しているのである。

この場合においても今、明日のために手を打つことを怠れば、数年後にはまた大変な状況が訪れることになる。明日を見据えてしっかり対応してこそ、明日が開け、今日、繁栄するのである。「明日の今日」の売上げを業界あげて確保していきたいとこころから思う。

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