巻頭言

鹿井さん

和田光征
WADA KOHSEI

11月15日、元ソニー副社長「鹿井信雄さんを偲ぶ会」が500人余の人たちが集いとり行われた。後日、「奥様やご友人のスピーチから人柄と交友の広さをあらためて感じることができ、鹿井さんも天国で喜んでいることと思う」と、かつて鹿井さんが会長を務めた日本オーディオ協会から臨席御礼の手紙を頂いたが、私もそう思った。中学時代、高校時代と蹴球(サッカー)の選手で、ともに全国大会で決勝に行ったということは、はじめてご友人のお話から識ったのだった。

鹿井さんは今年の8月に天国へと旅立った。私はこの「偲ぶ会」を心待ちしていたのである。

2年前だった。私は鹿井さんの携帯電話に連絡を入れた。「いま、病院なんですよ。1週間ほどで退院します」と言われ、「鹿井さん、Senkaで鹿井語録を紹介するロングランインタビューをしませんか」と提案した。「ぜひやりましょう。退院したら連絡し合いましょう」と約束して電話を切ったのだった。

その連絡を私は楽しみに待っていた。業界における鹿井さんの存在は、まさに太陽の如く輝いており、その偉業は私はもとより業界全体にとって光を放ち続け、道標になると確信していたからである。「鹿井語録」の意義の巨大さを私は強く思い、何としても実現したかったのである。

しかし数週間が経っても鹿井さんからの連絡はなかった。近しい人に連絡をとると、「倒れられてから言葉が不自由になられ、リハビリ中である」と聞かされ、鹿井さんの状況の重大さを識ることとなった。それでも私は元気になられる日を疑わずにいて、そしてとうとう8月、永遠のお別れとなってしまったのである。私は深いかなしみの中で茫然とし、「鹿井語録」を早く実現しておけばと悔やんだ。

しかし、鹿井さんとの思い出は、私の心の宝石箱の中にぎっしり詰まっていて、いつも笑顔で迎えてくれている。私が初めてお会いしたのは32年も前で、鹿井さんがアイワにいらっしゃった時である。当時の鹿井さん率いるアイワ商品は、ソニーを圧倒していて痛快だった。鹿井さんが繰り出す商品はいつも三歩も四歩も先を行っていて、他社が追随しようとしてもまたすぐリードして、完勝だった。

「お客さんがほんとうに欲しい商品を創る」、つまり指名買いしていただける商品が鹿井イズムである。故にお客様情報や世の中の新しい動きに対しても好奇心旺盛で、いつもアンテナを張り、しっかり本質を認識されていた。

1982年にソニーは大賀典雄さんが社長に就任され、1983年鹿井さんがソニーに帰られてオーディオ事業本部長に就任されて以来、ビデオ事業本部長、テレビ事業本部長となり、まさにソニー神話を築いていったと言えよう。

「偲ぶ会」で奥様が、鹿井さんが好きだったという斎藤隆介作の絵本「花さき山」の一節を披露された。

この 花さき山 いちめんの 花は、
みんな こうして さいたんだ。
つらいのを しんぼうして、
じぶんのことより ひとのことを おもって
なみだを いっぱい ためて しんぼうすると、
その やさしさと、けなげさが、
こうして 花になって、さきだすのだ。

大きくてやさしかった太陽のような鹿井さんは、これからも私の脳裏でいつも輝き続けるであろうと、強く思ったのだった。

 

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