松下和雄氏

ヘッドホン市場はまだまだ伸びる
楽しい売り場にして単価アップを
(株)オーディオテクニカ
取締役社長
松下和雄氏
Kazuo Matsushita

2012年に創立50周年を迎えたオーディオテクニカ。同社の松下社長がその歴史とともに今を語る。さらに勢いづくヘッドホン市場をリードする同社の原動力は、地道な努力を重ねる強さと逆境を跳ね返す力。やるべきことをやるだけ、という松下社長の姿勢に、困難な時代を乗り越えるヒントが見えて来る。

 

仕事や商売に奇策なし。普段から
やるべきことをきちんとやるだけ

ステレオカートリッジで
アナログ時代の寵児に

── 創立50周年、誠におめでとうございます。お父上の松下秀雄さんはブリヂストン時代、レコードコンサートを開催されたそうですね。

松下 八重洲のブリヂストン美術館横のホールです。レコードが高価な時代、ブリヂストンの石橋社長が提案し、音楽好きの私の父が指名されたわけです。そこで使用する装置をオーディオのメーカーさんに相談してご提供いただきながら、人脈が拡がっていったのです。

ちょうどレコードがモノラルからステレオに変わる時期でした。海外のレコードカートリッジが非常に高価で、これを誰にでも買えるような値段で提供できないかという思いで、父自身が会社を始めました。大きなオーディオ製品を作るには資本がたくさん必要になりますから、カートリッジに目をつけたのですね。金型も生産ラインも、倉庫も運搬するトラックも小さくて済み、投下資本があまりかかりませんから。

── 商品のデザイン性も当初から高かったですね。

松下 父がレコードコンサートを開催していた頃に知り合ったいろいろな音楽ファンの中に、グラフィックデザイナーの杉浦康平さんや工業デザインもやっていらした瀬川冬樹さんといった方々がおられ、会社設立にあたってマークや商品のデザインをご協力いただいたのです。

杉浦康平さんが作られた当社のロゴマークは当時からあまり変わっておらず、今でも新鮮さがあります。また最初に発売したカートリッジのAT-1、AT-3、トーンアームのAT-1001は、それぞれデザインも高い評価をいただきました。

発売当初はなかなか売れなかったのですが、AT-3が非常に音がいいと評論家の方々が絶賛して雑誌に取り上げていただけたことで、北海道から九州までのオーディオ専門店様から注文が入るようになり、それで会社が軌道に乗ったという経緯があります。

── その後OEMの展開も始まりますね。

松下 当初オーディオメーカーさんからアンサンブルステレオにつけるカートリッジが欲しいというご注文をいただきました。その後セパレートステレオになり、システムコンポに変わっていくのですが、この頃からステレオシステムが日本の輸出の花形製品になってきました。

当時のカートリッジは、アメリカのSHURE、ドイツのELACがパテントを持っており、日本で欧米に輸出できるものはなかった。そこで我々が新たな機構を考えたのです。資本も潤沢でない中、技術開発や素材の研究、一流の測定器の購入と投資をしたのは大きな賭けですね。しかし結果として独自製品を世界に輸出できるようになり、各メーカーさんも当社のカートリッジをこぞって買ってくださったわけです。

── VM型ですね。

松下 これまでSHUREやELACがずっと追求して来た音質に追いつくには相当の苦労があり、素材などいろいろと手を施しながら5年ほどの時間がかかったのです。マグネットを2つ使用したVM型の商品AT-VM35が出たのは1967年のことでした。各メーカーさんからご注文をいただき、海外でも高い評価を得られるようになって、1970年代に入ると立て続けにアメリカとイギリスに販売会社をつくりました。その頃の当社の強みは、独自のパテントの商品と販売力。こうした両輪が一緒に機動したことだと思います。

社員をやる気にさせ
新たな事業を展開

松下和雄氏── アメリカのケリー社長も、頑張っておられましたね。

松下 Audio-Technica U.S.Inc.を設立したのは1972年ですが、あるアメリカ人が当社の商品をアメリカで販売会社をつくって売るべきだと父にもちかけたのです。国内の注文で余裕はないと断ったところ、その人物がアメリカで会社をつくり、どんどんカートリッジを注文するようになりました。

しかししばらくすると彼は、会社を買い取って欲しいという。そこで現地に行ってみると、日本から輸出した商品が倉庫にそのままありました。彼は会社を設立して商品を輸入したけれども、結局ひとつも売っておらず、会社の財産は在庫だけです。主力銀行に相談に行ったところ、手に負えないと言われて日銀に行き、アドバイスを受け、ドルでお金を借りて結局買い取ったのです。

するとしばらくしてニクソン・ショックが起こり、借りたドルが円換算で3割くらい目減りしました。会社をつくって買い取る経緯では失敗もありましたが、ニクソン・ショックで助けられた面もあったわけです。オイル・ショックやニクソン・ショックで注文も減りましたが、これが塞翁が馬というものでしょうか。

そして買い取った会社を運営する人間を求め、以前から知り合いだったエレクトロ・ボイス社のジョン・ケリー氏をヘッドハンティングしたのです。VM型はアメリカでデュアルマグネット型と言いますが、彼はこれをステレオシステムに最も適したカートリッジというキャッチフレーズで販売しました。アメリカの雑誌で高い評価を受けて数多く取り上げていただき、これが成功をおさめたのです。こうして確立された販路で、ヘッドホンやマイクロフォンもアメリカで販売しました。

── オイル・ショックの頃、国内はどんな状況でしたか。

松下 それまでメーカーさんから順調に来ていた注文にいきなり急ブレーキがかかり、納品ストップ、しばらく注文はありません。そこで販売網を整備して、全国に営業所をつくりました。それまで技術開発や生産をやっていた社員が、全国で販売活動をしたわけです。

営業の仕事には営業トークだけでなく商品知識も必要ですから、技術出身者はよりきめ細かな対応ができたのではと思います。販売店様との関係を深め、カートリッジの試聴会も実施させていただきました。当社だけでなく他社の商品も含めお客様に音をお聴かせし、購入していただくといった活動を地道に続けたのです。

── その後業界全体がアナログからデジタルへ大きな転換期を迎えますが、御社のカートリッジのシェアは70%ほど、その頃がもっとも厳しい状況だったかとお見受けします。しかし光ピックアップの事業などで見事な変化を遂げられました。

松下 カートリッジは最盛期で月に100万個ほど生産していました。CDが出て来た当時、父はいずれアナログからそちらへ切り替わるだろうと予測はしつつ、社員の前ではカートリッジはそう簡単になくならない、と言っていましたね。社員を安心させながらも、光ピックアップの研究をしたり、ヘッドホンやマイクロフォンにさらに投資したりということも同時に行っていました。なかなか老練と言うのでしょうか、父は上手に社員を引っ張っていったと思います。

── そのあたりから事業を分散化、バランス経営を推進していくわけですね。

松下 最も利益率のいいのはカートリッジでした。マイクロフォンなどは世界的に有名な企業がいくつもあり、ゼロから始めた我々がそう簡単にシェアがとれるわけがなく、ヘッドホンもしかりです。社員としては、利益率もよく一番名前が通って黙っていても注文が来るカートリッジをやりたいわけで、ヘッドホンやマイクロフォンに本気になれなかったのです。ところがアナログレコードがCDに押されて危機的状況になり、ようやく皆がやらなくてはという気持ちになりました。それから大変な苦労もありましたが、今おかげさまで形になったというところです。

ていねいな売り場づくりで
ヘッドホン市場をリードする

── 今ヘッドホン、イヤホンの勢いは止まるところを知らない感がありますが、市場をどのようにご覧になりますか。

松下  ここ数年でヘッドホン市場は極大化し、国内だけでも200ブランドがひしめいてお互いに競争しています。これからもスマートフォンなどの追い風で市場は伸びると思いますし、毎日持ち歩くものですから買い替えサイクルも早い。そういう意味で恵まれた市場だと思っています。

これからも家庭用、通勤通学用、スポーツ用、さらにノイズキャンセリングや、また市場は大きくないですがワイヤレス関連も期待でき、単価を上げる余地もあると見ており、我々にも販売店様にもまだまだビジネスチャンスがあると思っています。

── 今やヘッドホンはオーディオのコンポーネントとして、スピーカーと同様に音楽を聴く中心的な道具となりました。市場をリードされているお立場から、さらなる拡大のために必要なことは何だとお考えでしょうか。

松下 一番大事なのは、お客様に音を聴いていただくこと。店頭で聴いていただくことで音質に納得していただき、高価な商品でも買っていただけるのです。これからもご販売店様と一緒に、お客様が見て、聴いて楽しい売り場づくりをするのが我々メーカーの使命だと思います。

── オーディオには新しいお客様の動員が課題とされますが、ヘッドホン、イヤホンの分野で御社にかかる期待はますます大きくなります。

松下 ヘッドホン、イヤホンは音の出口ですが、オーディオの入り口なのかもしれませんね。当社がご年配のお客様向けに展開するサウンドアシストスピーカーも、家族皆で楽しくテレビを見ることにつながる。そうして楽しみを拡げていくことが我々の使命かと思っています。

── マイクロフォンもオリンピックやグラミーアワードで採用されるなど、世界的な地位を獲得されていますね。

松下 オリンピックでは当社に声がかかったとき、どういう音を拾うかという観点で、各競技場でのマイクセッティングからコーディネートを提案したのです。それまで音が拾われてなかった部分にも積極的に切り込んで、例えばカーリング競技でストーンの音や選手の声を拾いましたが、それらを放送したことで競技を見るのも楽しくなり、テレビでの視聴率も上がったのです。

グラミーではミュージシャンが舞台で歌うものや、ピアノやヴァイオリン、ドラムスなどの各楽器にマイクロフォンが必要です。その上間隔をあけずにショーを見せるために回転式ステージが3つあるので、膨大な数が必要になってきます。こうしたことを全部手がけ、ここ14年間は当社がグラミーのエンジニアと一緒にやっています。

マイクロフォンは、どんなにいいものであってもすべてに通用するわけではありません。レコーディングスタジオ、ステージ、会議、スポーツ中継と、使われる場所や状況によって必要とされるものが違い、多機種、多様な商品が要求されます。当社では計画を立て全ラインナップを見直しながら、時代の先端を行こうとしています。

いきいきと働く環境を整え
節目を超えた次へ

── 50年の大きな節目を超えましたが、ここから先はどのようにお考えですか。

松下  以前は会社の5年計画、10年計画をつくってやっていけば読めるようなこともありましたが、現在は1年先もわからない時代です。しかし次の10年、20年に向って企業は走らなくてはなりません。弊社は3ヵ年の計画をベースに毎年事業所、営業所ごとに売上げ、利益、在庫計画も作成しており、これをきちんと実施するのが大事です。仕事や商売にマジックはなく、普段からやるべきことをきちんとやる、それは技術者も商品企画も、販売する立場でも、アフターサービスをする立場でも皆同じだと思います。

また、会社は人によって成り立っていますから、社員ひとりひとりが明るく働ける企業文化を育てていくことが大事だと思います。技術や営業方法を云々しても、3年後、5年後にはあてはまらなくなるかもしれません。社員の能力アップやいきいき働ける環境、企業文化をつくることに注力し、次の時代にチャレンジしていきたいと思います。

◆PROFILE◆

松下和雄氏 Kazuo Matsushita
1948年7月生まれ。71年4月日本ビクターに入社、74年3月にオーディオテクニカに入社する。94年に代表取締役社長に就任し、現在に至る。

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