巻頭言

ひとが大切

和田光征
WADA KOHSEI

新年あけましておめでとうございます。
新年を迎え、改めて人間の存在について思いを巡らせ、今年1年が素晴しい年になるようにと祈念しているところであります。
私は若い頃、何かと思索する人間でした。私自身の自我流で、無手勝流の思索法ですから専門的な論理とは程遠いものでありますが、還暦を昨年5月13日に迎え、そして未だに私なりの自然を見たり、人を見たり、社会を見たりという思いが、全く不変であるところを見ますと、物事の本質の部分に幸いにも20代前半で辿りついていたように思います。
「固体としての人間は死すべき運命にある。類としての人間は永続的に生き続ける」確かこの言葉はカール・マルクスだったと思います。私の好きな言葉です。人間の生命を時間軸で捉えるといろいろな事が分かってきます。
単純に言えば1秒間に地球を7回半回る光、1年間で到達する距離を1光年といいますが、光年の世界から人間の生命の時間を考えたとき、それは一瞬であることが分かります。平均寿命が85歳としても瞬きにもなりません。
太陽系↓地球↓自然↓人間(生物)という流れで見ていくと人間が生命の時間を類ということで連続させていく、そのことが存在するということであると思います。隣の子供も自分の子供ということは類という認識での思いであり、類を連続させていくということは人間個々が本性的に持っていることなのです。人間ばかりでなく宇宙そして生物、すべての原理原則なのです。
両親がいて子供が生まれ、子供はまた親になり、また子供が生まれということから、本来、瞬間である個人の時間が連続することによって個人すらも永遠に存在させていくのです。それはまた類の永遠なる存在を意味していますから、世界のすべての子供達も自分の子供であるとの認識が生まれてくるのだと思います。
こうして考えついた私の人間の存在論こそ、私の思考の原点であります。故に人間はいかにあるべきなのか。易経に「楽天知命」という4字句があります。
「天を楽しみ命を知る、故に憂えず」から生まれた4字句です。中国文学者の守屋洋先生の解説によると「天も命も同じような意味から天命という、天の意志とは人間の努力を超えたものである。どんなにじたばたしてもあがいても、どうにもならないものが最後に残る。甘んじて天の意志を受け入れ、その辛さや苦しさを客観化する。その結果、淡々として対処できる」とありますが、私が冒頭で述べた恷條ヤ揩ゥらの人間、人類の理解があれば先見の明が湧き出て、今を生きる術を体感することができるのだと思います。
先程の極めて身近な例を見ても親の存在、己の存在、子の存在そして有難さや感謝の思いが自ずと理解でき、ひいてはユーザーの存在、メーカー、販売店のあるべき姿まで、本質的なところで理解ができるのではないでしょうか。
自分だけよければいいという生き方は永遠性がないと断言できますし、人間が最も嫌うところです。まさに「人攻為上 城攻為下」、人心が掌握できてこそ真の勝利はあるのだと思います。

ENGLISH