巻頭言


いのち WADA KOHSEI


「宇宙のはじまりから大きな命の流れがあって、人間の歴史もその命の表れにすぎない。個の自立という近代の自我にとらわれてはいけない」ゲーテ

「山川は長くして万世なり 人は短くして百年なり」空海

「自然はこの世に流れる真理を何ひとつ隠していない」道元

私は宇宙→太陽系→地球→自然→人間を時間と空間という流れで考え、その真理の源こそ命であると認識しています。そして、命は種によって連続していき、その命の流れこそ時間であり、命は空間で育くまれていると思います。

5月10日、諏訪大社下社の御柱祭を見たのですが、この祭の流れこそ前述したことの象徴であると思ったのです。何故に1400年もの永い時間の中で、その祭のあり方、進め方が全く変わらず永々と続いているのだと思います。それは命を根っこに強烈においているからに他ならず、それは本質そのものである故に永遠なのでしょう。7年に1度それも寅の年、申の年に行われる御柱祭、なぜ7年なのか、なぜ寅の年、申の年なのか。これは太陽と地球の関係を意味しています。太陽こそ地球上の生物の命の源泉であり、それは7という聖数で決まっています。なぜ7なのか、それは1週間ということで理解できます。そして、聖数は陽の極としてあり、これは命の連続を意味します。

十二支で寅、申とありますが、昔の時刻に配した寅の刻、申の刻を見ますと、理解し易いのです。「草木も眠る丑三つ時」とよく言われますが、寅の前の丑の刻はまさに静寂そのもの、その静寂を打ち破って朝の準備にはいるのが寅の刻です。まさに新たな命が動き始める、そのために大いなる変革を起こすのが寅で、1年で言えば春、発展を意味します。一方、申の刻は西南に位置していますから、その日の終り、1年では秋、収穫、充足を意味し夜の世界への準備を始める訳です。陽としての寅も、陰としての申もその特徴に進取とありますから朝と夕、春と秋との両極で、命を連続させる根っこになっているのではないでしょうか。

7と寅と申。陽と陰。春と秋。御柱祭の組立てを私なりに考えながら見ていますと、まさに自然に育まれた大木を山の神から戴いて、人力で諏訪大社上社の本宮、前宮へ4本ずつ、下社の春宮、秋宮へ同じく4本ずつ計16本の御柱を立てるということは、7年後へ、そして未来への命の連続を感じてしまうのです。

山出しから里曳きまで2カ月かけ、ようやくそれぞれの神聖なる場所に立てられるのですが、山道を運び、60m〜100mの急坂を落とす木落し、川を越える川越し、そして町中を運ぶ里曳き、その行程の様は神との交流であり試練でもあるのです。人々と御柱との関わりは、まさに人生そのものを映し出しているのではないでしょうか。直径1m強、長さ20m、重さ10トン以上もの巨木は人々の一致した共同作業で20kmもの街道を運ばれていく様に人間本来あるべき営みを見るとともに、その先にある安寧、平穏を感じずにいられません。そして、素晴しい木遣りの声、ヨイサヨイサの掛け声のエネルギーとの調和、その根っこに永遠なる本質としての命を強烈に感じとったのでした。

宇宙のはじまりから生命があって、それは万世であり、自然はそのことを何ひとつ隠していないのです。

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