巻頭言

原尻の滝 / 和田光征 WADA KOHSEI


故郷に原尻の滝がある。その姿はナイアガラを思わせる佇まいで、日本中の滝としては特異な趣を持って堂々としている。何故にこんな滝が出現したのだろうか。高さ20数メートル、幅120メートルの雄姿は他に類を見ないものである。阿蘇山の大爆発によって、その溶岩流は緒方川に流れ込み、冷却した部分は巨大な滝となった。それが原尻の滝である。

その滝の偉容に胸打たれ、いつも見に行ったものである。田圃に水が入る春先から夏になると滝の水量は減少するが、それを過ぎると堂々とした名瀑に変化する。ましてや大雨や台風の時など、好奇心旺盛な私から見ると、その豪快さに見とれ驚愕し、何時間でも見つめ、滝しぶきを浴びているのだった。

田舎に帰ると必ず、この滝を訪れる。その度にこの滝の価値を高めていくのである。

私も滝好きで、いろいろな滝を訪れている。そしてそれは、全てが美しく素晴しい。本来、川や湖を起点とする滝は一点に集まり、落下していく。人間はより高く、より水量の多い滝を求めるかと思えば、5メートルの趣のある滝にもそれを拡大してみる術を持っている。そこに日本人独特の世界があるのかもしれない。 

箱根湯元に天成園という名旅館がある。そこには玉簾の滝という、高さは10メートル程だが直接落ちるのではなく、90度の滝となって白くはじけながら落ちてくる。その様を萩原井泉水が玉簾の滝と命名した。日本人はそんな風雅の中にいるし、そこに宇宙を見る凄さを持っている。 

横尾忠則は大変な滝好きである。彼は世界のいろいろな滝を見て回っているらしいが、彼の解釈では生命の連続の極としての瞬間を強烈に認識するらしい。滝が滝壷に落ちていく瞬間に生命が生まれる厳しい瞬間を見るというのである。そのためには大きな塊がドドーッと落下する時に、一段と鮮明なる生命の連続を認識するのではないだろうか。

例えば静岡県富士宮に音止の滝がある。それは那智の滝や華厳の滝と同類であるが全く違う。大きな塊が滝つぼへ周囲の音を消し去るような激しさで落下するのである。その営みにとんでもないエネルギーを感じるとともに、表象的には畏怖を感じずにいられない。

さて原尻の滝である。部分的に見れば音止の滝の要素もあるが、様々な姿を見せてくれる。大雨の時など、さながらナイアガラである。しかし、一番美しいのは田圃に水を入れる前の春と、田圃に水が要らなくなる秋のやや水量の多い時である。桜と新緑そして紅葉と澄みきった青空、そのときの滝の美しさは格別で、浴びる霧に生命を育むエネルギーを感じてしまうのである。

 

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