巻頭言

故郷行 / 和田光征 WADA KOHSEI

思えば田舎のバス停で出征兵士の名残のように故里人に見送られながら、東京へ旅立ったのは昭和38年だった。当時、田舎を出て行く少年少女達は決まって「留守中、よろしくお願いします」と言って、故郷を跡にした。私もそう言ったと思う。貧しい村に留守の後、帰ってきても居場所がないことは後で知った。

学生の頃、田舎へ帰って長居をした。まさに人生の岐路である。これからどうするべきか等、父と語り合った。父はいつも自分で決めろと、言葉ではなく態度でしか示さない。「いつ、いくのか」。私はその時、愛して止まない故郷に自分の居場所がないことを悟った。今思うと「いつまでもいていいよ」と言われても困っただろうと思う。さっさと東京へ帰っただろうとも思う。しかし、妙にさみしくて仕方がなかった。24時間かけて急行「火の山」で東京への帰路に着いた。

あの頃、本当に金に困った。父に手紙を書いた。父から葉書がきた。読むといつ送金するとは何も書いていない。「こちらは皆元気だ。おまえも頑張れ」、それだけだった。この葉書一枚から自立心が生まれたと思っている。

余談だが、クラリオンの創立者である滝沢左内オーナーから可愛がられた。昭和45年、25歳頃のことである。その時「和田君、借金術を教えてやろう」と言われた。少なくとも父の葉書以来、自立心旺盛だった私にとって意外な思いだった。「借りる話は1分、返す話は100分」。「大体が金を借りる奴は借りる話が100分で返す話が0分が殆どだ」と言われた。以来、このことも私のDNAになっている。

大分空港から別府へ。翌日、いよいよ故郷である。同行者達は山や川や佇まい、すべてに目を見張って感激していた。ここで写真を撮ろうと御岳山(海抜700メートル級)の中腹から見た雄大な風景へ、シャッターを切った。「こんなところはないよ」。「凄い」と言いながら身動きしない。この風景はちっちゃな少年の頃からよく見ていた。だからセザンヌの「サント・ヴィクトワール山」の絵が今でも好きだし、ゴッホのアルルを描いた絵が好きである。同時に俯瞰する癖もついたと思っている。多少の絵心があったので春夏秋冬の自然の色や空気が脳裏や身体に沁み込んでいて、そのことが私自身の「ものの見方、考え方」の中心部分をかたちづくっている。

同行者達は私の実家へ行き、また姉の嫁ぎ先に泊り、故郷人の自然のままの人情を強烈に感じたようである。とりわけ、私の実家は鍵というものがない。未だにないのである。故郷行きは人々の原風景を見る旅でもあったのである。

 はるかなる さとにぞ春の きたるらむ
 北の都に 沈丁花さく

上京した翌年の早春、父に送った歌である・・・。

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