HOME > インタビュー > 記事

インタビュー

指揮者・外山雄三さんが聴く「N響アーカイブシリーズ」− 初海外演奏旅行の秘話を語る

取材・構成/ファイル・ウェブ編集部
2012年07月20日
現在「ナクソス・ミュージック・ライブラリー」と「e-onkyo music」で好評配信中の「N響アーカイブシリーズ」。若き日のカラヤンやストラヴィンスキーとの共演、日本のオーケストラとして初の海外演奏旅行での演奏など、日本のクラシック音楽史を語る上で欠かせない歴史的名演が多数リリースされている。

第1弾として配信されている音源のなかで注目を集めるもののひとつが、1960年に行われた、日本のオーケストラ初の海外演奏旅行の公演を録音したものだ。

NHKの放送開始35周年を記念して敢行されたこの演奏旅行は、1960年9月1日から11月1日、68日間で12カ国24都市を回った。岩城宏之、外山雄三、中村紘子、堤剛、松浦豊明、園田高広といった、その後も日本のクラシック音楽界を牽引する音楽家が帯同。ゲストとしてディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、シューラ・チェルカスキー、パウル・クレツキらも参加した。

第二次世界大戦が終わってから15年。国連に参加し、国際社会の一員としての関係を構築すべく奮闘していた日本の文化使節としての意味合いも持った公演であったうえ、海外へ行くこと自体が非常に珍しかった時代、団員はどんなことを考え、感じ、どんな演奏をしていたのだろうか。

演奏旅行に参加した指揮者/作曲家の外山雄三さんに、「N響アーカイブシリーズ」の音源を聴きつつ当時のお話しをうかがった。

★「N響アーカイブシリーズ」誕生の舞台裏を覗いた記事はこちら
★「N響アーカイブシリーズ」配信音源一覧はこちら
  ナクソス・ミュージック・ライブラリー(AAC/128kbps)
  e-onkyo music(WAV/FLAC、192kHz/24bit、96kHz/24bit)

   ◇  ◇  ◇   


−−−今回「N響アーカイブシリーズ」というかたちで、1960年に行われた初の海外公演をはじめとした貴重な音源の数々が配信スタートしました。そこで、当時のお話しなどをうかがえればと思っています。


外山雄三さん
外山さん:当時は終戦後15年。外貨も自由に持ち出せないですし、外国へ行くということが想像もつかない時代でした。外国生活経験があったのは100人のオーケストラのうち4〜5人くらいで、あとはみんな、初めての外国でした。

メンバーもみんな若くて…30歳になる前の人間が圧倒的に多く、一番上の方でも50歳くらいだったでしょうか。参加したソリストのうち、松浦豊明さんは30歳、ピアニストの中村紘子さんは16歳、チェロの堤剛さんは18歳でしたしね。だから本当に全員が、大冒険旅行に出るような感じで行ったと思います。当時日本は音楽後進国だから、こんなに若いパワーでやっているんだ、と見せたいという考えをお持ちの方が、N響側にいらしたんだと思います。

「日本食がないとダメだ!」と行って米や炊飯器、佃煮なんかを沢山持っていったりしましたね(笑)。公演先で、日本食でもてなしてくれた大使館から誰かがタクアンの缶詰を盗んで、全員集められて「誰もいないときでいいから返しなさい」ということがあったり(笑)。

公演面でのハプニングもいろいろありましたよ。このチャイコフスキーの交響曲第5番を演奏したモスクワ公演も、20時開演の予定だったのですが、飛行機のトラブルで楽器が到着しなくて。開演したのは24時くらいだったと思いますね。でも満員のお客様が、ひとりも帰らず全員いてくださったんですよ。

−−−チャイコフスキー記念ホールでチャイコフスキーを演奏する、しかも日本人オーケストラ初の海外公演で…というのは、本当にすごいことですよね。本場で、本場の聴衆を前に、本場の曲を演奏するということですから。

外山さん:殴り込みですよね。それのもっとすごいのが、ウィーンのムジークフェラインで岩城宏之がアンコールに「美しく青きドナウ」をやったことですね。始まったらウィーンのお客さんが「ええーーっ?!」って驚いて。

−−−チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番をやったときのお客さんの反応はどんな感じだったのですか?

外山さん:そりゃあすごい熱狂的な反応でした。それこそ「ブラボー、ブラボー」って叫んで足踏みをして。

−−−私も音源を聴いて、日本のクラシック音楽史を切り拓いた記念すべき公演なんだ…と感じて胸が熱くなりました。

外山さん:戦後初めて外国に出て行くということもありましたしね。しかし今聴いてみると、ぐちゃぐちゃだなあ(笑)。

それと、自分たちは気付かなかったんですが、一番最初の公演地であるニューデリーからモスクワに移動して楽器を出したら、弦楽器の鳴り方が断然変わったんです。モスクワは湿気が少ないですからね。チューリッヒでも現地の放送局の方に「あなたたちのオーケストラは弦楽器がよく鳴るね」と言われて。日本では「管楽器は素晴らしいのに、弦楽器が鳴らない」って言われ続けてたんですよ、当時は。それが、よく鳴ると言われて。日本は湿度が高いですからね。

−−−初の海外公演ということで、おそるおそる本番に向かうような気持ちだったのかなと最初は思っていたのですが、音源を聴いてみて認識を改めました。ヨーロッパのオーケストラに全く引けをとらないものができて、自信に溢れていたのかなと。

外山さん:最初のニューデリーがいいトレーニングになったというか。演奏旅行中、回を重ねるごとに、ふるまいの感覚が分かったのかなと思います。

−−−先生はもともと1952年に打楽器練習員としてN響に入団され、54年に指揮養成員となり、56年にN響を指揮して指揮者デビューされましたよね。この1960年の海外演奏旅行は、デビューから数年しか経っていない状態。こういった海外の舞台に乗るというのはプレッシャーは感じなかったですか?

外山さん:海外演奏旅行に行くことは、当初全く秘密だったんです。当時の情勢として、日本のオーケストラがヨーロッパに出て行くなんてことが知れると、色々大変なことがあったんでしょうね。

僕は1958年から60年までウィーンとザルツブルグへ留学していたんです。1960年6月の初め頃、「日本へ帰ってきなさい」と言われて。まだ海外に滞在していい期間は残っていたので「何だろう?」と思いつつも帰ったら、岩城宏之と僕が呼ばれて「実は海外演奏旅行をやるから、指揮をしてくれ」と。出発は8月の末。時間が迫っているので、そこからやらなければいけないことが山ほどありました。何もかも手探りでしたね。

曲目決めも、私と岩城に任された大きな仕事のひとつでした。あんまりいい演奏にならなくても、どうしてもお終いにお客様が拍手したくなるような曲がいいだろう…ということで、チャイコフスキーの交響曲5番とブラームスの交響曲第1番を。それだけだと「日本のオーケストラはロマン派しかできないのか」と言われそうだから、ベートーヴェンの交響曲第3番も…と言ったのが、自分たちの首を絞めたわけですが(笑)。

運営側から「外国へ行くんだから、日本の作品を持って行きたい」とも言われたので、ふたりで録音や楽譜を集めて、何日か徹夜して聴きましたね。それで決まったのが、高田三郎さんの「山形民謡によるバラード」と、アンコールに黛敏郎さんの「越後獅子」。

−−−先生の「管弦楽のためのラプソディ」は、その機会に書かれたわけではないんですか?

外山さん:「管弦楽のためのラプソディ」初演は確か1960年の7月のはじめ、千駄ヶ谷の駅前にあったかつての東京体育館でのN響サマーコンサートのアンコールでしたね。アンコールを書け、と言われたんですが、そのとき「あ、もしかしてあれは…?」と思ったできごとがありました。

それはその年の1月のことです。留学中の私のところに有馬大五郎先生(NHK交響楽団の育成に携わった音楽家)がいらして、ボロボロになった野ばら社の「日本民謡集」という小さな本を「ハイ、これ」と渡されたんですよ。

その「日本民謡集」には、細かい字でいっぱいものすごい書き込みがしてあったんです。「これは古代旋法の○○と共通するものであるが、第○音が抜けている云々」…とかね。それは、有馬先生がご自分の勉強用に書いていらしたのか、私に渡そうと思ってずっと書きためていらしたのか…亡くなられてしまったので、真相は闇の中ですが。

その「日本民謡集」のことを思い出して、「ああ、あれを使って何か作れということかな」と思ったんです。その「日本民謡集」は、いまでも僕の宝物です。

有馬先生が仰っていたのは「日本の民謡はテンポがない、リズムもない」と。テンポは歌う人に任されているし、西洋音楽で言うところのリズムは非常に少ないか、影が薄い。それがはっきりしているのは何なのか、探しなはれ、と。探しなはれったって困るぜえ、という感じだったのですが(笑)。

日本民謡というものにそれほど深い興味を持っていた訳ではなかった私としては、「あ、八木節(群馬民謡)っていうのは樽叩いて勇壮な感じだから、いいかなあ」とか、非常に単純な発想で選びましたね(笑)。

でも後になって考えてみると、日本民謡であんなにテンポがあって、しかも西洋音楽で言うリズムがはっきりしているものって、他にあまりないんですよね。

−−−そうして生まれた「管弦楽のためのラプソディ」、最初は20分くらいの長い曲だったのを、岩城さんがどんどんカットしていったそうですね。

外山さん:そうですね。「おてもやん」(熊本民謡)とかも入れてあったんですけど、岩城が「この『おてもやん』のところ、要らねえよな!」とかいう風に…(笑)。

でも、作曲者というのは、そこが良いと思っているわけではなくても、自分の作品をバッサリ切るというのは難しいんですよ。それを岩城が、最初の練習で一回通してみて「あ、ここ要らねえよな。いいだろ?」って言うから「ああ、いいよいいよ」という感じでしたね。

−−−ではその音源をちょっと聴いてみましょうか。1960年9月19日、ポーランド・ワルシャワ公演での「管弦楽のためのラプソディ」です。

外山さん:このときのフルートは、吉田雅夫さんですね。この吉田さんの演奏を今でもみなさんお手本にしてるんですよね。しかし、八木節のところは速いですねえ(笑)。

−−−この時は会場もかなり温まっている感じだったのですか?

外山さん:そうですね。アジアから100人もの人間がオーケストラとしてやって来るということで、お客さんは「自分たちが普段接している演奏と違うのだろうな」と思って聴きにくるわけでしょう? それで実際聴いて「自分たちと同じ事やっている、なかなかやるじゃないか」とお思いになったんじゃないでしょうか。

その後にね、東南アジアに行ったときに、20人くらいの記者に囲まれて「あなたたち、楽器を見せてくれないか」と言われて。飛行機に積んであるから見られないよ、と言ったら「チャイコフスキーやベートーヴェンを、日本の楽器でやるんでしょう?見てみたいんだ」と言われたんです。

−−−お琴や三味線が出てくるのかなと思っていたんですかね(笑)。

外山さん:だからねえ、本当に、外国に出てみて初めて分かることが沢山ありましたね。戦争が終わって初めて、日本人が大挙して押しかけてきたと受け取った側も、ヨーロッパには大勢いたかも知れないですし、色々なことが、今考えるほど単純にいかなかったところがあるかも知れません。私たちはそんなことを全く知らされずに、のんきに演奏旅行したわけですけど。

   ◇  ◇  ◇   


−−−今回配信されている音源のなかには、1954年のカラヤンとの公演もありますよね。1954年と言えば先生がN響の指揮養成員になられた年。当時直接カラヤンの演奏に触れて当時どう思われましたか?

外山さん:当時のカラヤンは、日本に於いて現在ほど知名度の高い指揮者ではありませんでした。もちろん名前は知っていましたけれど。「カラヤンが振りにくる」と言われたとき、めちゃくちゃに緊張しだしたのは、当時ウィーンから来ていた4人の若い音楽家くらいでしたね。

当時の練習で印象に残っていることがあります。ベートーヴェンの交響曲第5番を一番最初に練習したとき、冒頭の「(ン)ジャジャジャジャーン」という部分を「そんなに弾くな。最初の音を出すだけだ」と言ってしつこく練習しましたね。自分の指揮に対しての反応の仕方をオーケストラ全体で揃えるということだったのか、それとも彼独特のデモンストレーションのひとつだったのか、分かりませんが。

   ◇  ◇  ◇   


−−−今回、過去に関わった音源が「N響アーカイブシリーズ」というかたちで配信されるをお聞きになったときは、どんな風に思われましたか?

外山さん:ただ懐かしくて、嬉しいですよ。特に僕は色々なものを集めたり取っておいたりしないほうなので、とても有り難いです。過去の自分の演奏を聴いて、「あれ、こんなことやってるの?」って思ったりもしますけれどね。今若いやつがこんなことやったらブチ怒るとこだ!ってことを、頻発してますから(笑)。

先日N響の団友会があったのですが、やっぱり自分たちが演奏しているものを聴いてもらえるのは嬉しいことなんですよね。「あんなもの出されて困る」という人は、あんまりいないと思います。

−−−この「N響アーカイブシリーズ」はすでに大変好評で、多くの方が聴いてくださっているそうです。詳しい方は「何年の誰々の演奏、聴いてみたかったんだよね」とおっしゃってくださったり。

外山さん:本当に、大変有り難いですね。

−−−個人的に、N響というのは日本のなかで特別なオーケストラだと思っていて。日本人がオーケストラ、西洋音楽をどんな風に自分たちのものにしてきたのかを体現している団体なのかなと感じているんです。その軌跡を、「N響アーカイブシリーズ」のようなかたちで聴けるのはとても嬉しいなと思っています。本日は有り難うございました。