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「ミンヨン 倍音の法則」スタッフインタビュー − 宇宙に身を投げ出すような映画製作の現場

2014/11/25 山之内優子
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公開中の映画「ミンヨン 倍音の法則」(2014年10月より「岩波ホール」他、全国順次公開)は映像作家、佐々木昭一郎氏の20年ぶりの作品であり、初映画作品だ。佐々木監督は過去に演出した作品が多くの人に衝撃を与え、数々の国際賞を受賞、伝説の映像作家とも言われている。2014年11月、NHKBSで「佐々木昭一郎の世界」特集も放送された。

今回、「ミンヨン 倍音の法則」の企画・プロデュースを担当された、はらだたけひで氏と、撮影を担当された吉田秀夫氏に作品が製作される発端と製作過程についてのお話をうかがった。

「ミンヨン 倍音の法則」関係者 右より はらだたけひで氏(企画・プロデュース)、仲田良平氏(録音)、ソン・ミンヨン氏(出演)、佐々木昭一郎氏(監督)、ソン・ユンヨン氏(出演)、吉田秀夫氏(撮影)、旦部辰徳氏(出演)、岩崎進氏(音響)、渡辺栄二氏(シグロ)(C) 2014 SIGLO / SASAKI FILMS

はらだたけひで氏 「ミンヨン 倍音の法則」企画・プロデュース担当
1954年東京生。都立高校卒業後、信州の山間を放浪、現代思潮社主宰美学校を経て、1975年に岩波ホールに入社。「ピロスマニ」(1978年日本公開)、「父と暮らせば」(2004年)、「ポー川のひかり」(2009年日本公開)他、数多くの映画の公開・宣伝に関わる。『パシュラル先生』(産経児童出版文化賞)、『フランチェスコ』(ユニセフ=エズラ・ジャック・キーツ国際絵本画家最優秀賞)他の創作絵本作家、「十歳のきみへ」挿画等の画家でもある。今回、佐々木監督からの要望で「ミンヨン 倍音の法則」中で挿入される登場人物のスケッチも描いている。

吉田秀夫氏 「ミンヨン 倍音の法則」撮影担当
1941 年東京生。早稲田大学演劇科卒業後、1963 年NHK入局。佐々木昭一郎作品では「四季・ユートピアノ」(1980)以降の8作品の撮影を担当。1997 年NHK退局。以後はフリーのカメラマンとして、NHKドラマ「ファイブ」(2008年)、密着ドキュメンタリー「新・猿之助誕生」(2012年)、NHKスペシャル 「新生 歌舞伎座 ~檜舞台にかける男たち~」(2013年)他、ドラマ、ノンフィクション、NHK特集、NHK日曜美術館等の撮影を担当している。



映画の発端となる、佐々木監督とミンヨンさんとの出会い

ー ご多忙中ありがとうございます。まず、原田さんと佐々木さんがお会いになって、映画製作が開始されるまでのことをうかがえますか?

はらだ 2004年の晩秋に、早稲田大学で「夢の島少女」の上映会がありました。上映後、質疑応答がおこなわれ、最初に質問に立ったのがミンヨンさんでした。そのミンヨンさんのよく通る声に佐々木さんが魅せられた。その後、少人数のうちあげの会で佐々木さんの近くに座った彼女の聡明さ、姿、形。動作。すべてに佐々木さんは魅せられたんでしょうね。この人を主人公にいつか作品を作りたいという思いが、はっきりと芽生えたらしい。

「ミンヨン 倍音の法則」(C)2014 SIGLO/SASAKI FILMS

その後ミンヨンさんと佐々木さんはメールなどで交流していて、どんどん作品の構想が膨らんだようです。2006年の朝日新聞のインタビューで佐々木さんは、早稲田で出会った人を主人公に作品を作りたいと明言しているんですね。シナリオも書き始めたと。自分の作品は他人が絶対にこれまでやらなかったことをやろう、自分の度胸を見てほしいと、そこまで話していました。

人生を変えた佐々木監督作品との出会い

はらだ 僕は70年の「さすらい」の放映のとき高校生だったんですが、たまたま放送を見て、自分の人生を変えたぐらいに大変な衝撃を受けました。僕自身が進学をせずドロップアウトし、さすらいをするようになった。自分の前に広い世界がひらけてきたんです。

「夢の島少女」(1974年)も、友人からすごいTVドラマを見たと事細かに繰り返すように説明を受けて、すっかり見たような気になっていた。10代の頃ですね。そのときに使われたパッヘルベルのカノンという曲は、今は街中で流れている曲ですけれど、当時は珍しかった。佐々木さんが使って、そのあと前衛舞踏など色々なところでとても有効に使われるようになりました。僕はそのパッヘルベルのカノンの音楽の魔法にすっかり魅せられた。今でもパッヘルベルのカノンのような絵本を描いてみたいなあとか、そういう思いはずっとあります。そのように佐々木昭一郎という人が自分の原点みたいなところにあったのだと思います。

岩波ホールに僕が入社した後は、佐々木作品主演の中尾幸世さんとは彼女の朗読会の手伝いをしたり、手紙をやりとりしたりの関係がありましたが、佐々木さんとの直接の関係はまったくありませんでした。佐々木さんの作品がオンエアされる度に、襟を正してテレビにしがみついて見ていましたね。ただ、1995年の『8月の叫び」以降、少なくとも僕の前から佐々木さんは姿を消してしまった。あれだけ世間で愛され注目を受けていた芸術家が、まったく僕の周辺にはニュースがはいらなくなってしまった。どうされているのか、ご病気か何かされているのかと思っていたんです。

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