巻頭言

道ははるか

和田光征
WADA KOHSEI

経営評論家が事業をやって企業を結局倒産させた話は有名である。経営評論家なら日頃説いているように経営すれば成功間違いなしのはずなのに、何故失敗するのだろうか。

ある人に言わせれば「いろんなことが分かり過ぎて、社員や得意先まで馬鹿に見えてしまうんだろう」とのことであるが、しかし、経営するのだから得意先まで馬鹿にして成立しないこと位分かっているはずである。馬鹿になどしていないが、「人が動かない」ところに問題があると言えるだろう。

言うなれば経営の理屈は知っているが、人間学を知らないのだと思う。逆に言うならば、経営理論など知らなくても、人間学を心得ている人は成功すると言えるわけである。経営学をマスターし、さらに人間学をもマスターした人物であれば、もうこれは鬼に金棒と言えるが、神は二物を与えないのが現実だ。

かつて、この項で「敬天愛人」について述べたが、人間は、天地自然が先ずあってその深い愛の中に抱擁されて存在する。人間とは人と人の間ということだから複数で成立する。人が三人になれば社会が構成される。三人になれば二人の時のような甘え合いが難しくなり、ルールをつくり、利己主義を牽制する。そして、二人以上は人間そのものの関係が複雑になるが、それは信頼感という大きなフィールドを持つことによって和らいだり、不信の時にはこわばったりしていくわけである。

まず神ありきではないが、まず人間ありきである。人間の存在がすべてを生み出すわけであり、以上のような認識は極めて重要であると思う。無論、前述の経営評論家は理論として、こんなこと位は分かっているのである。

しかし、上手くいかない。

それは身体で分かっていないからではないだろうか。石田三成が幼少の頃、咽喉が乾ききった秀吉に最初ぬるい茶を出し、おかわりの時に熱い茶を出した逸話は有名だが、咽喉がからからの人間が一息に飲むであろうことを予測しての行動は頭で考えたことではないと思う。やはり咽喉がからからの人間が来た時すでに身体がそうした行動をしていたのではないだろうか。物事をいちいち考えていては瞬時の適切な行動にはならないはずだ。

商圏のお客様を金を払ってくれる人間としてのみ見るか、自店はお客様に生かされていると見るか、長期的に見れば後者が圧倒的な勝利を収めているだろう。

人間のことを良く知って、人間が好きでない限り、商売は成功しないと断言できよう。「理屈は時として不信を与える。無知の方が却って真実を話す」という言葉があるが、この辺に経営評論家云々の結論があるのではないだろうか。

わが業界を見渡す時、ここ数年人間学を熟知した人々が活躍されているように思う。人間学を心得た人は人間的魅力もまた豊かだ。

私は今、九合目がかすかに見えてきた段階。道ははるかはるかである。

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