巻頭言

原体験─三世代マーケティングに寄す

和田光征
WADA KOHSEI

出張先の朝、まだ日の出前の時刻である。ホテルの前の幅100メートル余の川面に霧はたちこめ、水は陰影を見せながらゆるやかに無限の世界へと流れている。白鷺や青鷺が首を高くあげて、ゆっくりとゆっくりと歩き餌を探している。霧の中に溶け入りそうなその姿態は、あたかも哲学者のようだ。

視線をさらに遠くへと注ぐ。するとある一角だけ激しく波立っているのが見える。何だろう。凝視するがわからない。私は暫くして、もう川沿いの土手を歩いていた。川上へ歩き、昔ながらの橋を渡る。そして又川下へと歩き、波立っているところへと急ぐ。

あたりは漸く明るくなってきた。蒼々としたくさや木々の葉先は水滴で重そうである。石ころが転がる緩やかな傾斜を見せるあたりから、波立っていた不思議な世界が見えてきた。

私は背伸びをしながら川岸へ降り立って驚いた。魚の大群である。30pから大きいものは40p近くもある魚が重なり合うように泳いでいる。数百匹は間違いなくいるだろう。うぐいではないし、何という魚なのか、私の脳裏にインプットされている魚達が抽出されるが、結局分からない。九州の山奥の清流で育った私にとって見たことのない魚である。

この魚達が産卵のために浅瀬で重なり合い徘徊していることを認識したのはかなり後になってからだった。それよりもどうすれば漁れるか、今、何をすべきか等とあわてて考えている自分がそこにあるだけだった。暫く身を乗り出して凝視していたが、どうすることもできない。石をひとつ投げ込んで、振り向きながら土手道を川上へと歩く。

まだ、興奮している自分の内なる叫びに思いを馳せる。少年の頃、蛋白源として川魚は貴重でよく漁りに行った。水中眼鏡と銛で魚のいるところへ潜っていく。水はあくまでも透明で、水底から見た太陽をいっぱいに浴びてきらきら光っている水面の様子は、今でも脳裏に焼きついて離れない。

昔ながらの橋の上で地元のおじいさんに、今見てきた事を興奮した口調で話して聞かせた。「あれはイザゴイだよ。イザゴイが集まってたんだろう」と人の良さそうな笑いを浮かべて「珍しいことではないよ」という。「そりゃあ大変だ」といって駆けていくのかと思ったら、笑っているだけである。人も魚も鳥達も、自然そのものに抱かれ、一体なのである。朝陽が霧の向こうで白く輝いていた。

私の場合、相変わらず川や魚の前で立ち止まってしまう。また、食べ物でいくつになってもあんぱんが忘れられない。まさに三つ子の魂百までである。今、こんな話をなぜ述べたのか。

オーディオを原体験として青春時代を送った団塊世代が66歳になって、その子ども、家庭の中でオーディオの原体験をもついわゆる団塊ジュニアが40 歳代になってきた。そしてその子ども達がやはり原体験をもって15歳を超える。その前後の層もそうした環境で育った人達である。

こうした三世代の視点で商品は企画されるべきではないかと考える。業界には、モノからの思考を超越したマーケティングが希求されているといえまいか。

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