巻頭言

Aさんの話

和田光征
WADA KOHSEI

ある集会で聞いたAさんの話。Aさんが中学生になったばかりから高校生までの、昭和30年から37年の話である。

Aさんの家は9人兄弟姉妹でAさんは四男坊、すぐ下に妹が2人、その下に弟が2人いて、三男はAさんが中学二年の春に故里をあとにし、次男はすでに名古屋方面に就職していた。長男が後を継ぎ、長女は町に嫁いでいて、三男が故里を後にした時からAさんは長男に次ぐ存在となった。

家は農家で貧しかったが、明るく楽しい家庭だったようだ。大人数を束ねる父親の教育「人間ができていなければ何もならない」と、黙々と子供達を育てる母親のコンビネーションがそんな家庭をつくりあげていたのである。

とりわけAさんはアルバイトばかりやっていて、稼いだ金はすべて父親に渡すのが当たり前、自分のポケットに入れるなど全くなかったとのこと。

父親は、子供達の学級費やPTA会費などの集金は必ず夜言うきまりにして、借金に行く訳である。朝言っても渡さない、ならば学校に今日は行くなという具合で、本当に学校に行けなかったとのこと。そんな中、Aさんのバイト代はそのことを多少なりとも解消したのだった。そしてAさんは益々自立していったと言う。

当時のアルバイトと言えば、農閑期では奥山の溜池からつながる田圃への水路の修復など土木現場での作業だったり、巨大な石切り場での作業などだった。石切り場ではダイナマイト用の穴掘りで、直径5センチ程度の穴を1メートル30センチ位に刃先のついた鉄棒でコツコツと掘削する。終わると大人が導火線を穴深く入れ粒状の火薬を詰め、点火して爆発させる。Aさんは導火線を走る炎の早さと音、ドンッという鈍い爆発音と振動、そして轟音とともに崩落する巨石の様を今でも鮮明に覚えているという。

また、冬、清流の河原から板梯子の上を、砂利を笊に入れ天秤棒で担ぎ、バランスを取りながら道路まで上げる作業も思い出深いという。ある冬の日、雪が舞いはじめ吹雪になった。親方が「こりゃア、ムリだなァ」。淵からせりあがるような崖の上にある雑貨屋で休むことになった。大人達3人は早速焼酎。Aさんと友人はオレンジジュース。Aさんの脳裏に未だに沁みついているのが、大人達がつまみにしていた冷奴。木綿豆腐の上に刻み葱を敷き詰め、その上に唐辛子を真っ赤に置き醤油をタテヨコにまんべんなくかけ、割るように口に運ぶ。今でもAさん宅の冷奴はそうして楽しんでいるとのこと。あの日の雪の舞いと清流の凍てつく白さ、これも又、忘れ得ない思い出だとAさん。

さまざまなアルバイトをして稼いだ現金はそっくり父親に渡す、父親そして母親が微笑む。Aさんにとってこの上ない幸せだったそうだ。私は思った。あの時代の貧しい山村では良くある話だが、しかし、稼いだ金を全部父親にあげてしまうとは。私はこの父親はただ者ではないなと思ったのである。

「私は父親の教育に只々感服し、今日あるのもその教育の賜物と心から感謝しています」と結ぶAさん。私は心深く得心したのだった。


ENGLISH