巻頭言

ここからはじまる

和田光征
WADA KOHSEI

「地震酔い」という症状が相変わらず続いている。居間のソファでテレビを見ていると、隣の妻がちょっと動いただけでお尻のあたりが「地震か?」と感じて身構えてしまう。大地震のあと度重なる余震が続いて、そうなってしまった。このことを「地震酔い」というらしい。三半規管が「揺れているという錯覚を起こしたままの状態」とのこと。車酔いや船酔いなどと同じ現象で、ひどくなると医者の治療が必要らしい。わが家ではちょっと揺れただけで反応する小さな置物を置いて、地震酔いを感じた場合はそれを見るようにしている。お尻の反応が瞬時に解消するが、本当の地震の場合はその置物の揺れが小刻みから激しくなり、照明の長めのコードが揺れ始めた時、震度は3から4になる。

私は当社の若いスタッフに「揺れてもいないのにお尻が地震を感じたりしないか」と問う。全員が軽度の地震酔いであることを識る。「その感覚を忘れるんじゃないよ」と続ける。全員が「?」の顔をして私を見つめている。「…つまり大地震によって今までの人間とこれからの人間は変わるということだよ」と私。「ここまでとここからは人間の意識は自然に変わり、それがあらゆる現象として現れる。人間は身体ごと変わっていく。例えば防御するという意識は身体の奥底に沁み入って、これからの人間の意識と行動に影響を及ぼしていく」。この話は私が主催し毎週開かれるスタッフミーティングでのひとこまである。

日本人はこうした事態でも秩序正しい、真面目で礼儀正しいと海外メディアは伝え、当の日本人もそう思っている。それはまさに武士道精神である。こうした日本人が形成された背景には天災を幾度も体感しながら、自然とコツコツと向き合って生きてきた歩みがあるからだと思う。先祖以来続いてきた日本人の本質でもある。

私の田舎は台風の通り道である。父からの手紙に「…台風が来ないのでまだ田植えができない」と記してあった。また子供の頃は何度も田圃が洪水にあい、土砂に埋もれたが、村人たちは被害にあった田圃に集まって石や木々をひとつひとつ片付けていき、いつしか美田へと変貌させていく。幼いながらに感激したものである。決して自分勝手は許されないという次元ではなく、自然の営みとして終わらせる共同体としての風景である。こうした心は農耕民族の特性であり、営々と日本人に刻み込まれ、今回の災いにも活きている。

同時に為政者が無能であっても民は自発的に復興させていく凄さがあるのだ。もし為政者がリーダーシップをとれたなら、復興はさらに早まり無駄な時間を費す必要もない。

こうしたきっかけというか、巡り合わせというか、天変地異はより強い日本人を創造していくと思う。「地震酔い」をしかと覚えておかなければならないし、覚えていくのがまた人間である。「自然がもたらすものと日本人」について深く考えるが、福島原発、計画停電には前述の思いが沸かないのはなぜだろうか。

人間の傲りに対して天は厳しいのである。


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